イエスは処女マリヤから生まれたと言う。だから処女が女の理想で、それが素ばらしいというのではありません。この意味は、救い主の誕生に人の父や人の胤(たね)を必要としなかったということであり、人が救われるに人の力や知恵を必要としないということでなのです。 人が救われるとは、神の子を宿すということであり、あるいは神の子が誕生するという事です。 したがって救われた人には、こういう処女の降誕は自分の体験に酷似なので「そういう事もあるだろう」と納得出来るのです。