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キリスト教といえば、三位一体。三位一体といえば、キリスト教というのが常識です。これに異論を唱えるものは、即異端と断定されます。しかし今これも冷静に考えてみよう。
普通、三位一体といえば、「本質は一つ、人格は父、子、聖霊の三つの神」という事になっています。神は一人だが、現れは三つ、とも表現します。あるいは、唯一の神の三つの位格と、難しくいう場合もあります。父も神、子も神、聖霊も神なのに、三つの神がいるのでなく、唯一の神だけがいる、とも言われます。
これは神の知恵に属する事で、人知の及ぶ事でない、もしこれに意義でもとなえようなら即異端者と断定してかまわない、といいます。これも早く言う方が認められるという早い者勝ちです。
譬えて言えば、これは給料30万円出すと明言したのに10万円しか出さぬのに文句あるか、というようなものです。また、これは、「A氏の奥さんは、一人かと思うと三人もいる、しかし不思議に思うな」、と言うに似ています。
とにかく、神の知恵にぞくする事で、人知の及ぶ事ではない、と言い、冒頭からこれで始め、以下すべてこの論法でやるのだから何でも「無理が通れば道理ひっこむ」の諺の通りで、不合理も堂々まかり通ります。都合が悪くなると、「神の知恵にぞくする事で、人知の及ぶ事でない」、と言えばいいのです。
しかし聖書の真相はこうである。
唯一の神とは、父だけを指します。新約聖書をよく調べると分かりますが、「神」とは、すべて父だけを言います。
御子イエスは、創造主です。その創造主の点でいえば、神です。が、父から生まれた(創られたのでなく)ので、しかも、神はただひとりの原則にふれるから、御子を神と呼ぶのは正確ではありません。だから聖書のどこにもイエスは神と言う直接の言葉はありません。有るのは、神の子だけです。しかしよく問題にされるのは次の言葉です。
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。-----
---これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストと信じ るためであり、そう信じてイエスの名によって命を得るためである。
ヨハネによる福音書21章28節と31節
使徒のトマスは、イエスに「わが主よ、わが神よ」と告白しました。従って「イエスを神と信じる」ところに救いの基本があると思いがちです。しかし、すぐ後の31節に「あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、ーーーーー」とあり、”イエスは神”とは書いていません。
これらから思うに「トマスは、イエスのうちに「神の住みたもう」のを見つけ、その神に「わが主よ、わが神よ」と告白した、あるいはこういう素ばらし体験に導かれた神に感謝し感動しているのでしょう。
弟子らは、イエスという男の内に神の宿りたもうのを見つけ、自分と同じ人間の中に神が居たもう、この人こそ救い主で神の子(神でなく)と信じ受け入れたのです。救いとは、自分の内に神の子を宿し孕(ハラ)み神の子に成るか、あるいは彼を孕み神の子を生むことにほかなりません。
神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神 だけが、神をあらわしたのである。 ヨハネ福音書1章18節
これも問題で、「ひとり子なる神」がそれです。
聖書の現在まで残る多くの原本文には、「ひとり子」としてだけ記され、神の字がありません。
また神の名はイエスなので、イエスは神と言う者もいます。が、イエスは神の名というかぎり、イエスは神でなく、あくまで”神の名”なのです。
イエスは神の姿、神の言葉、神の栄光などの”神の現れ”なのであって、その意味で、神の名なのです。もしイエスを神というならイエスのこの役割をする存在が必要になり、聖書の本旨から離れます。
ーーーーわたしの右に座していなさい。ーーーーーー
あなたがたが十字架につけたこのイエスを神は、主またはキリストとしてお立てになったのである。 使徒2章35節と36節
正確に言うと神の子は、神というより、神の座に座り、神しか出来ない仕事をしておられる神の子というべきです。
「聖霊」について言うと、
聖霊は聖なる霊で、神の霊です。この方には、人格があるので、それをもって聖霊を聖霊なる神と言い、第三の神を立てています。
この論旨は奇妙です。聖霊は神の霊であるので、当然神であります。また、霊であるのだから人格を持つのは当たり前のことです。
霊とは、肉体を失った場合でも残る永遠の存在で、人格者の本質、命です。だから復活の主が弟子に以下のように言われています、
ーーーーわたしもあなたがたをつかわす。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰
せになった。聖霊を受けよーーーーーヨハネ福音書20章21、22節
このように聖霊は、神(人)の命、息、霊、特に復活の命です。神の分身、分霊であり、別の神(人格)なのではない。
まず聖霊なる神という言葉は、聖書にはありません。聖霊は助け主として人の信仰や賛美や祈りを助けたもうが、信仰や賛美や祈りを受ける対象ではありません。使徒信条の「我は聖霊を信じる」という告白は、聖書に何の根拠もありません。聖霊を信じる者に聖霊が下るのではなく、御子イエスを信じる者にだけ聖霊は下るからです。(ヨハネ20章22節、使徒2章33節)
人の救いは、神の子への父の神よりの宇宙支配の全権委譲(マタイ11章27節他)とその神の子の受肉した人イエス(ヨハネ1章14節)にこそあると信じる事、即ち「救い主キリストとは、ナザレの村の大工ヨセフの子イエスである(他に救いなし)」と信じる事にあります。
一般的には、ローマ信条(使徒信条の原型)を基準にして聖書正典を定めた、と信じられています。この信条(信仰の告白)の中心は三位一体神観で、これに合わない宗派は異端と古来されてきました(カルビン賛成、エラスムス、セルバート他反対)。しかし、本当の所は“神の子イエスのみによる救い(参考としてマタイ16章16節の「あなたこそ生ける神の子キリストです」というペテロの信仰告白がある)"だけを基準にすべきであると私は思います。
ローマ信条は次のようだ。
わたしは全能の父なる神を信じる。
また、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信じる。
主は、聖霊と処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトの元で十字架にかかり葬られ三日目に蘇り、天に昇り、父なる神の右に座しておられる。そこから生者と死者を裁くために来られる。また聖霊、聖なる教会、罪の許し、体のよみがえりを信じる。
しかし、これを正確に読むと今日ある聖書正典とは合わないとすぐ分かる。
例えば、
主イエスは、聖霊と処女マリヤより生まれたというより、全能の父より生まれた(コロサイ1章15節)というべきであって、使徒信条の“聖霊を信じる”という信仰告白は、イエスを信じるというところにだけ聖霊が臨まれ働かれる(ヨハネ14章16節)から不要です。
では使徒信条と三位一体という正典と偽典を分かつ基準は、何から生まれたのでしょうか?いかなるものも周囲の環境と無関係ではありえません。この正典と偽典もそうであったように、物差しもそれを取り巻く風土と文化性と無関係では在りえません。
キリスト教にも、選ばれた正典と選びにもれた多くの外典偽典が存在します。
それはも白い服は汚れやすいというようなもともと純粋で正当な信仰の危うさに原因があるでしょう。唯一の神は創造神です。これに対して人が陥りがちなのが自然や自然の個物を神とする偶像崇拝です。また天の神の偉大さが逆に地上の俗物である人間との間を隔てる大差を生んでしまいます。だからその間を結ぶ預言者や聖典や戒律(律法)を必要とし、神であると共に人であるような救い主キリストの誕生を絶対に必要とします。
その救い主とキリスト教徒が信じる“ナザレのイエス”をどう見るかで、異端か正統か分かれます。
彼を単なる人間とみれば、他宗教の俗物教祖ですら「私はイエスの生まれ変わり」とか「再臨のキリストだ」と言えます。彼を父と同じ神と見れば、神と人の間に執り成す救い主が居なくなるので、代わりの救い主が必要になり、別の異端となります。(創世記1章27節の「人を神のかたちに造られた」ということは、人間の理想を神の姿にしようということであり、神のかたちとはキリストです。だからその宗教、宗派がイエスをどうみているかで、人間をどう変えようとしているかが分かります。)
歴史的に見ても、三位一体の教理が確定するのは、四世紀で、イエスや弟子らの時代では明確ではありません。明確でないものを明確にしょうとするのは神への冒涜でしょう。