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信じてバブテスマを受ける者は救われる。 マルコ福音書16章16節
救われるには、
第一に、信じる事です。といっても何を信じるべきなのでしょうか。
Aに、御子イエス・キリストを信じる。Bに、「信じてバブテスマを受ける者は救われる。(マルコ福音書16章16節)」とのこの言葉を信じるのです。
第二に、バブテスマを受けることです。
信じてバブテスマを受ける者は救われる。マルコ福音書16章16節
悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受けるであろう。 使徒行伝2章38節
このように、神は三位一体であろうが、なかろうが、人は、皆イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けるべきです。では「なぜイエス・キリストの名でなければならないのでしょうか?」。
以下のおよそ10の理由があろう。
1、マタイ福音書28章19節除く、使徒行伝2章38節と使徒行伝8章16節と使徒行伝10章48節と使徒行伝19章5節の全部は、イエス・キリストの名で洗礼を授けるか、命じている。
あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。使徒行伝2章38節
それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていだだけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
使徒行伝8章16節
こう言ってペテロは、その人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。
同10章38節
人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
同19章5節
2、マタイ福音書28;19は、「父と子と聖霊の名により」という文句を唱えて浸せてという意味ではなく、水に浸すだが、その真意は、それにより父と子と聖霊の名に浸る事になる。−−−という意味です。いのちのことば社発行の詳訳聖書によると「彼らに父と子と聖霊の名に入れるバブテスマを授け−−−」とあります。
3、ブリタニカ百科事典、キャネイ宗教辞典 その他、たいていの聖書辞典には、次の記述があります。
初期の使徒らはたいてい主イエスの名で洗礼を授けた。しかし、徐々に変化し、二、三世紀には教会のほとんどの指導者は、三位一体の名で洗礼するようになりました。
4、「だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない(ヨハネ福音書14章7節)」というのは、最も大切な言葉です。父も三位一体の神(父、子、御霊)にもこの“私に”にはありません。“私に”とはイエスだけです。
父は唯一の神である。主イエスは神というよりむしろ神の子あり、神への唯一の道(門)である。福音の本質は、誰でも主イエス(あるいは彼の名)により父の元(天国)に行けるということにあるのです。それだからこそ、私たちは主イエスの名ですべての国民に洗礼を授けるべきです。
5、東洋の習慣によれば、花嫁は花婿(家族全員でなく)の名によりその家族の一員になれるのです。この様にキリストの花嫁は、彼女の花婿イエス(神の家族全員ではなく)の名で神の家族に成れるのです。
洗礼の目的は、キリストあるいは彼の死に合うためにある(ローマ6章3節)。となれば、当然、イエス・キリストの名で洗礼せねばならないでしょう。
洗礼が、キリストにつながるためというなら洗礼は、キリスト・イエスの名でせねばならないのです。なぜなら誰もみな、キリスト・イエスの名でこそ父の神につながる事が出来るからです。
(即ち誰も、神の名で神の元に行くのでありません。父の神の名で、父の神の元に行くのでもありません。また三位一体の神の名で三位一体の神の元に行くのでもありません。真の神が何であれ、その名で真の神の元に行けるのではありません。というのは救い主の名で神の元に行けるのだからです。これこそこの福音の本質です。
だからこそ使徒は、「わたしたちを救いうる名はナザレ人イエス・キリストを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである(使徒4章12節)」と言います。
6、イエスという名は、歴史上に有った特定の人の名、固有名詞です。人の救いは、神の子への父の神よりの宇宙支配の全権委譲(マタイ11章27節他)とその神の子の受肉した人こそイエス(ヨハネ1章14節)であると信じ事、即ち「救い主キリストとは、ナザレの村の大工ヨセフの子イエスである(他に救いなし)」と信じる事にあります。
これに対し、三位一体の神の名という言葉は、具体的に特定できません。また人の名でもなく、抽象的な言葉で固有名詞でもありません。となれば、人の救いに三位一体の神の名を言うのは不適切です。
7、
確かにすべてのクリスチャンは、「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざとによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい(コロサイ書3章17節)」に従い、イエスの名ですべてのことをするべきです。では、なぜ洗礼だけが例外なのでしょうか?
8、父と子と聖霊という名は奇妙である、というのはイエスの言葉にしてはあまりに抽象的で神学的で哲学的であるからです。何しろイエスの説教は、やさしく、具体的で、羊とか麦とか石などの多くのやさしい言葉を使われたのだからです。
普通に考えても、父と子と聖霊という名が、人間の思考の中にあるとしても、それが現実の自然界にあるというのはあまりに不自然です。
9、はじめのマタイ福音書28章に戻ると18節と19節は続いています。それで私は思う、権威も名も同じ言葉である。この続きは非常に奇妙です。私は尋ねねばならない「イエスから父、子、御霊に、変わった洗礼の名というイエスの全権とはいったい何なのか」と。
10、最後の決定的結論;詳しい聖書辞典にはたいてい以下のようにあります。
それらの記述によると、エウセピウス(紀元後260に生まれ〜後337死亡)はマタイ28章19節の一節を引用しています。彼の著書“教会史三巻5の2”で、それを見つける事が出来ます。それは次のようだ「行って我が(イエス)名ですべての国民を弟子とせよ。」
ここに“父と子と聖霊の名で彼らに洗礼せよ”という文は見つかりません。誰かがこのマタイ28章19節を改竄したのであろうと推測せざるを得ません。
しかし「いくら「聖書にこうあります。この方が正しい」と言っても伝統的教会の指導者には、馬の耳にナンとやらで、相手にしないか、狂気のごとく「それは異端だ」と叫び、まず冷静な話などできません。
すべての伝統的教会は三位一体の名で洗礼を授けます。言うまでもなく、その根拠はマタイ28章19節と、およそ二千年の伝統があるからです。彼らはそれを疑うことはありません。
彼らはそれに絶対的信頼をおいているため、彼らはそれに反対する人を“三位一体を否定する異端者"と確実に呼びます。そして無謀にもUPC(神はイエスだけと考える)のような異端者だと言います。
しかし、聖書は何と言っているのでしょうか?
私たちはマタイ28章19節だけではなく、使徒行伝(英語改訂標準翻訳聖書より)も学ばなければなりません。
三位一体の名で洗礼せねばならないという人の言い訳〜。
1、アメリカのテレビ伝道師のレックスハンバードは、マタイの言葉はイエスで、使徒行伝の言葉は
使徒である。主人は弟子より偉大である。それでマタイにあるイエスの言葉を選ばねばならないと言います。
2、イエス(御子)が洗礼を受けた時、聖霊が彼に下る。そして天(父の神)からの声がある。マルコ1章9節より11節
他
この理由の故、三位一体の名による洗礼が正しい。
3、マタイは正式で、使徒行伝の「イエスの名による洗礼」は略式である。
4、使徒時代の外典の文書に十二使徒の教訓(ディダケー)と言うのがある。この7章13節に「父と子と聖霊の名の洗礼」があるので、三位一体の名の洗礼は、使徒伝来のものであると言います。
5、二千年の伝統である。神が許されたので、続いた。だから、続いたということだけからも、正しい。
そこで、この際、諸君に申し上げます。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざか、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。
使徒5章38、39節
反論
収穫まで、両方(麦と毒麦)とも育つままにしておけ。 マタイ13章30節