聖霊のバブテスマとは何ですか?

 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて 〜 わたしの証人となるであろう。使徒行伝1章8節
  普通、聖霊のバブテスマとは、この箇所の前半だけを取り上げ、力を受けること、と理解します。しかし後半の「わたしの証人となる」に着目すると、意味が違ってきます。
 証人とは何でしょうか。伝道するので証人でしょうか、全く伝道しなくてもキリスト信者はイエスの証人なのではないのでしょうか。即ち聖霊がくだると、それでキリスト信者になるという事ではないのでしょうか。
わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマを授けるであろう。マルコ福音書1章8節、(類似、使徒1章5節、マタイ福音書3章11節、ルカ福音書3章16節)
 その人こそは、御霊によってバプテスマを授ける方である。ヨハネ福音書1章33節
 福音書のこれらの記述を見るに、イエスの為すべきことの中心は、聖霊のバプテスマとしか読めません。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできなない。 ヨハネ福音書3章5節
この前後をよく読むと、どうしても水と霊は二つの洗礼の事と考えざるを得ません。水は、水のバブテスマを意味し、キリストの十字架に合い罪に死ぬ。霊は、聖霊のバブテスマを意味し、神の子の蘇りの命に預かり新生する。となれば二つのバブテスマにより万人は、神の国に入ることができる。----となれば、聖霊は力というより、命を意味する。したがって聖霊のバブテスマは、福音の付け足しでなく、本質なのではないか。
 しかし、多くの指導者は「それまでは聖霊の量が足りなかったので、力に欠いていた。がこの時以来、聖霊のバブテスマにより、力に満ち世界に証する者になった」と説明する。
 聖霊は、力というより命となれば、聖霊のバブテスマは命を受ける事を意味するということになります。すると、それまでは、命がなかったと言うことになります。
その上、聖霊のバブテスマが異言と結びつく場合が多い(使徒2章4節、10章46節、19章6節)ので、問題は深刻です。