科学と宗教の関係を知りたいのですが?

 方向音痴の諸君、道に迷った事はありませんか?

幸いにして現在は、カー・ナビゲーション・システムが発達して自分の位置や進んでいる方向がわかるまでになりました。科学の進歩は果てしないものです。しかしいくら進んでも分からない事があるのです。それは、行くべき方向についてです。「自分はどこに行くべきか?」は絶対分からない、決められない。ハンドルは運転者が握るべきだからです。カメラの進歩も際限がないように見えます。しかし限界があるのです。どこの、何を撮すのかは、カメラが決められないからです。カメラは、今ある姿をそのまま映します。

 しかし、あるべき姿まで撮すことはできなのです。このように科学は、今ある事の事実、自分の位置、今の姿を教えてくれます。これに対し宗教は、行くべき道、方向、目標、あるべき理想の姿を教え、指導します。また 事の手段を教えるのが科学。その目的を教えるのが宗教です。例えば、「どうして東京に来たのですか?」と言う問いに、「仕事をしに来た」と、その来た目的で答える場合は、宗教。「新幹線で来た」といい、来た手段方法で答えるのが科学なのです。
 あるいは、何が幸せなのか教えるのが宗教。どうすればその幸せになるか、の手段を探求するのが科学です。
 
 A君は、厳しい受験競争に打ち勝ち、あこがれの大学に入る。しかし「どうして僕はこの大学に入ったのか」と、疑問を感じるようになってきた。このように大学(人生)の意味や価値を問うのが宗教で、その数ヶ月まえに「どうし大学に入ろうか」と苦悶(苦問)苦闘した。この目的を手にする手段が科学になるでしょう。
 こういう訳ですから、科学と宗教は合いません。イヤ合ってはならないのだ。手段に対する目的の関係なのですから、逆になる場合すらあるからです。例えば、自由を得る(目的)ためには、不自由(手段)を選ばねばならないでしょう。真に生きようとする(目的)なら、死に等しい自己否定の道(手段)を選ばねばならないでしょう。生きるものは死に、死ぬものは生きるからです。
 このように科学と宗教の目指すものはまるで次元を異にします。その上多くの場合、かように手段と目的は相互に矛盾します。となれば「聖書は創造論を語り、進化論を否定している」等という説や、「科学の説明が聖書に近づいた」等という事自体、愚論と言わざるを得ないでしょう。
 
 ここまで述べても理解されない方もいるので更に語ります。聖書は、創世記の初めに有る創造の記述で、宇宙や自然の出来方や作り方(手段)を記しているのではありません。神が創造し支配している宇宙自然への神の意志とその創造の目的を語っているのです。