神が愛で何でも出来るのなら、

何故不幸があるのですか?

 神とは、日本人がよく考える「自動幸福たれ流し機」でありません。 祈り願う者の願いに答えるお方で、祈りも願いもしない者に答えるほどお節介やきではありません。普通、神は何も願わないものには、何も与えません。

 そういう世の中で、多くの人が、何でも出来て愛のある方を無視し、何も出来ない愛もない不幸の元にすがっています。だから、彼らが不幸になり、不運の者が絶えないのは当然です。 人間万事塞翁が馬という故事があります。幸不幸は相反する様に見えますが、幸は不幸の元、不幸は幸せの元である場合があります。
 両者は同根の木、同じコインの裏表なのです。雨の日は不幸とある人は思います。だが、恵みの雨と言う様に同じ雨を幸と思う者もいます。それも同じ出来事を同じ者が同時に幸とも思い、不幸とも思います。ウンチや小便は、排泄物として、人には呪いです。しかし、同じ物でも植物には、食物として幸せの元です。
 
 むろん病気は誰が考えても不幸ですが、こういう不幸を幸せにする事を飯のタネにしている医師もいます。となれば、患者の不幸で医師には幸せとなります。
かような世の仕組みを考えると神が愛で、何でも出来るからこそ、この世の中には不幸という現実があると分かるでしょう。 イエスは、「丈夫な者に医者はいらない」と語られました。