原理運動の研究

  原理運動即ち統一協会は、非常に多くの悪事を働いています。しかし何がそもそも基本的に問題なのでしょうか。
 イエスは何度も「私は帰って来る」と言い残し天に上られました。確かに「----このイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう(使徒1章11節)」との最後の天使の言葉のように同じイエスが、同じ様に再臨します。ところが、かのユダヤ人イエスとは似ても似つかぬ韓国人の文鮮明を救い主キリストと宣伝するのです。あまりに違うので、さすがの彼らも気が引けるのでしょう、彼を再臨主と呼び、今度来る救い主は、別人の生き神様でも構わないと言います。
イエスはそういうペテンにあざむかれないよう警告します。
 そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。マタイ福音書24章23節
 こういう訳で、結論からいうと、原理運動即ち統一協会(世界基督神霊協会)とキリスト教徒は何の関係もありません。彼らは聖書から原理講論などの各論を説きます。が、その論旨は儒教、仏教であり、自然そのものを神とする汎神論であり、聖書にある天地創造の神から生まれたものとは、何の関係もありません。
 では、キリスト教の本質とは何でしょうか?
 ナザレの村の大工ヨセフとマリヤの子イエスという男だけが救い主キリストである、と信じ受け入れるという事が、この信仰の基本です。
 イエスの時代でもそうだが、長い人類の歴史の中で絶えず「我こそ救い主キリスト」と主張する者が現れました。すべてイエスの預言の通りです。
 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。 マタイ福音書24章5節
 その中で唯一「このナザレのイエスという男だけが、キリストである」と信じる信仰が続き残ってきました。これがキリスト教です。
 釈迦を救い主キリストとするのが、仏教。孔子を救い主キリストとするのが、儒教。日本の神々を救い主キリスト とするのが、神道。〜なのだから、文鮮明を救い主キリストとニするのなら、文鮮明教と言うべきでしょう。
 さらに原理運動が問題なのは、資金集めのためには手段を選ばない、嘘ペテンを総動員する、狡猾で強引な寄付行為から勝共連合に見られるような反共政治活動までやり、政治家や検察、警察関係者を抱き込むなどしていることです。
 そのすべてはオウムもたまげる嘘とペテンでこね上げたものです。この事実は、幹部でもよく知らないようだ。だから入信2、3年の信徒など知るよしもないでしょう(もしこれに異議があるなら、真相をよく調べてからにして欲しいです)。木はその実(未)で知られる。ミカンの木はどの部分を切ってもミカンだ。リンゴの木のどの部分を切ってもリンゴだ。同様にウソの木のどの部分を切ってもウソの汁(知る)が出ます。末がソレなら、頭もソレです。