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世界的カルト宗教「ものみの塔、即ちエホバの証人」に妻や子供を盗られてしまったと嘆きの諸兄は多いです。
彼らは我らこそ聖書に忠実と自負しているので、攻め易い。が、他説に耳をかさないので攻めにくい。その上、三位一体的神観を想定して理論武装しているので、通常の論法で攻めても太刀打ち出来ません。
しかし愛と忍耐と知恵をもってすれば、カルトの自縛から解放されます。
今、その知恵を授けましょう。
主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはならない。だれがどんな事をしても、それにだまされて はならない。
第二テサロニケ人への手紙2章2、3節
エホバの証人は、第一次世界大戦の始まった1914年に「キリストは再臨した」と狂気のごとくふれまわっています、即ち彼らは「主の日はすでにきたとふれまわる者」なのです。が、その証拠はないので、見えない形で来たとごまかします。これから彼らにとり神とは、見えない形で来る者なのです。
証人は、神の名はエホバであると言います。しかし以下の言葉によると、その名はイエスと考えるしかありません。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。ピリピ人への手紙2章9節
また、証人は「イエスは、神に造られた神の子であり、神の子とは天使である。イエスは、その天使の頭ミカエルである。したがって、彼を礼拝するのは、偶像崇拝」とします。
エホバの証人の重大な誤りは、このイエスを「天使長ミカエル」と見るところにあります。問題の箇所を引用してみましょう。(以下二つは、エホバの証人推薦の新世界訳による)
エホバご自身が、その道の初めとして、昔のその偉業の最初としてわたしを 生み出された。 箴言8章22節
彼は見えない神の像であって、全被造物の初子です。 コロサイ人への手紙1章15節
後者は、前者の大まかではあるが、引用文であり、神と神の子の関係を述べています。問題は、後者の「全被造物の初子」と言う矛盾した訳語で、それはいわば三角型の丸のようなもので、実際には有り得ない存在です。
被造物とは、造られた物という意味であり、初子とは、初めて生まれ造られた子供を意味します。「造られる」と「生まれる」とは似ているようだが、全く意味が違います。造られたものとは、命のないものに使い、生まれるとは、命のあるものに使うからです。例えば、「則巻アラレ」ちゃんは、完璧人間型ロボットとして生き物の人のようだが、やはり則巻千兵衛博士の造った機械です。これはマンガだから命のある人と命のない物との区別は明確にありません。
しかし、現実に有るものは、極めて明瞭です。生きた人は、子として親に似、また親に愛され、自由でしかも親の家遺産を継ぐことが出来ます。しかし、機械なら、造った親に似ず、実子のようには愛されず、メーカーや持ち主の道具か僕としてこき使われ不自由で、しかもその持ち主や主人の家や遺産を継ぐこと等、出来るはずもありません。
人は、元来、神の子であり、神の使いの天使ではありません。救われるとは、元の神の子になり、神の国の世継ぎに成ることです。だから、能力はともかく、身分の上では人は天使より上なのです。へブル人への手紙1章14節には、天使は救われる人に奉仕する霊とあり、その前の13節には、御子キリストは、み使い即ち天使でないとあります。
エホバの証人の言うように、もし御子を天使長ミカエルと見るなら、キリストの信者の方がキリストより偉くなることになってしまいます。