A どうして?(目的と手段)



カメラと自動車と
1 どうして?(目的と手段)
  陶器が陶器師と争うように、 おのれを造った者と争う者はわざわいだ。    ( イザヤ書四五章九節 )
 造った者と造られた物とどちらが偉いか。 いうまでもなく造った方である。 ところが時にそれが逆転する。そうなれば上の言葉の様に呪われ、不幸になるのは、当然である。
 器を造るには、 物を入れるという目的がある。 その目的は造る側にあり 、その目的に合うようにその(入れる事の手段として)器を造る。そしてそれが用を足し、 役立つという場合に「それは価値がある 」といわれ、 造られた事の「意味がある」ということになる。
 ここで決して間違えてはいけない大切なことは、 目的の重要性である。 目的があってはじめて手段が問われる。この逆は決してないということである。 目的が主人であって、 手段はその下僕である。
 ところが間違った考えに人が捉われると、 この家来の方が主人より偉くなって、家来が主人に命令するようになる。 一事が万事で、下にあるはずのものが上に成り、上にあるはずのものが下になる。そうなれば上の口からモノを出し、下の尻からモノを入れなければならなくなったりする。すべてが逆さになっていくのだ。だから、この下克上こそがあらゆる不幸の始まりであと分る。その一番のはじまりは、自然、 宇宙自体そのもの(造られたもの)やその中にある個物(すべて造られたもの)を神とすることである。


カメラと自動車と


 自然科学の発達は目覚ましく日進月歩である。 その象徴が機械の進歩だ。そのため、「なんでも機械で出来る」とまで考えはじめている。しかしいくら素晴らしい機械が出来てもその機械に出来ない事がある。イヤ機械にさせてはならない事がある。即ちいくら科学が発達しても絶対不可能な問題がある。それは人間の生きる目的については何も答えることができないという点である。いやそこまで科学がものを言ってはいけないのである。
 具体的に言うと、今その機械の代表にカメラと自動車を考えよう。
 カメラも進歩して、自動的に焦点を合わせ、シャター速度も自動的に操作する事でフィルムに入る光量を調整してくれるので、誰が撮っても失敗はない。たしかに確実に映る。それがどんな時もキレイに映る−−−−ナンテ事になると、何でも撮れる、映せる、何でも出来ると思うようになる。しかし、それだからといって、逆に「ナニを撮るか, どこを映すか」までそのカメラが決めるという事は絶対出来ない。それは、あくまでそのカメラを持つ人が決めることのはずであるからである。
 自動車の進歩も素晴らしい。故障は少ないし、スピードも早くなり, 乗り心地も良くなった。人や物を運ぶ事なら何でも出来る。ハンドルすら無くなり運転も自動的に成るかもしれない、それで何でも出来ると思えるようになると思う。 しかし、その優れた車でも絶対出来ない事がある。何処に行くかは車自体が、決める事が出来ない。何処に行くかは乗ってる人が決めるのであるから。
 カーナビゲーションなる機械があり車についている。行きたい場所がどこにあるか教え、その道筋を導く。その上、自分の車の今居る位置も教えてくれる。しかし、自分の行くべき場所、居るべき位置まで教えはしない。即ちいくら自動車の性能がよくなり、カーナビのような装置が取り付けられて便利になっても、決して自動化機械化できない事がある。自動車やカーナビが運転する人間に「お前、北に行け、 南に行くな 」などと命令できないし、それは「してはいけない」ということである。 
 さあ夏休みだ、 では、 海へ行こうか山へ行こうか、 どうしようかと迷う。 その時、自動車に相談する。 するとそれに付いているコンピューターやカーナビが示す、「今年は山に行く人より海に行く人が多いです 」と。 ここまで調べ言うことはできる。だがそれ以上要求しても「それはあなたの決める事です 」というのが、 主人に忠実な僕の答えである。
 もしそこで「みんなが海に行ってるので、 あなたも海に行きなさい。それが正しい」などと機械が言いだすとなると、 これは恐ろしいことである。 人間が機械を使うのでなく、機械に人間が使われているのである。(その一番愚かな結末が、核戦争であろう。敵を殺すものが、味方を殺す、イヤ武器が人間を殺すことすら考えられる)。 科学の進歩は生活に便益をもたらす。 だが「科学は決して人間の生き方を決める」事はできないはずである。
 それは「有る」を星の数ほど集めても、 「有るべき」を決めることはできないからである。
 しかし、この「有る 」を無数に集めても、 「有るべき 」を決めることはできないという当然のことが、分らない人が多いのである。例えば、世界中のみんながしている、だからそれと同じことをするのが正しい(逆に同じ事をしないのは、悪である)と当然の様に考える。
 それに「伝統に生きる事が何がなんでも正しい」と思う人は何時の世でも居る。また歴史を研究する人の内には、古代から中世、そして近代に至るまで信じてきたのだから、それだけで正しいという者が跡を絶たない。どんな長い伝統(世々に有る)であろうが、皆がしてよう(どこにも有る)が、それが、善悪を判断する基準にはならない。多くの「有る」が「有るべき」にはならない。そうしてはいけないのである。
 それでは既成事実の積み上げが認められてしまうことになる。”嘘でも百編聞けば本当らしく思える”ということから、ウソも永く続けばその内、無理が通れば道理引っ込むで、真実の様に成るということがこの世間にはある。が、それはさも真実のような装いをし続けていて、人々もそう錯覚させられているだけで、現実はそう(即ち有るべき姿)なってはいないのである。ワラをいくら集めても柱にはならない。ところが、何も分らぬものは、ワラでも無数に多くあれば柱になるように思う。


どの方へ行くべきか?


 歌に「心だに誠の道に叶いなば、祈らずとても神は守らん」というのがある。行いが正しく、心がけがよろしく、敬虔であるなら、たとい祈らないでも事前に感応して、神の加護が得られると言う説が昔からある。とにかく間違った事はしないで、誠実に一生懸命に生きれば、正しい道を歩むので天国(極楽)だ、というものも多い。
 しかし、大阪から東京に車で行くのに西向いて走っていたのでは、いくら誠実、勤勉であったとしても、確かに道をはずれてはいないにしても、もし向きが反対であるとなれば、近づくどころか遠のく。東を向いてないと目的の東京にはとてもいけない。人生には、道は正しく、実に真面目で懸命に努力しているのに幸せになれないという人も多い。それは方向を間違えている。逆向きではいくら感心するほど立派な人でも、幸運とは無縁となる。
 大切なのは、どう行くかという手段や生活の正しさよりも、まずその行くべき方角、目標である。前者を良くするのが、科学で、後者の方角を定めてくれるのが宗教である。


どうして来たの?


 方向を間違えず、ようやく東京へ着く、すると出会った知人が尋ねる「どうしてきたの?」と。そういう場合返事に困る、意味が三通り考えられるからだ。
1つには、「どうして来たの、来た目的は何ですか?」という意味、
2つには、「どうして来たの、来た乗り物は何ですか?」という意味、
3つは、「どうして来たの、別に来なくてもいいのに」という意味、
 物事を否定的に見る人ならどうしても3つ目に考え、自分の行動そのものが否定されているように思うだろう。その点で、雰囲気が肯定的であるなら、1と2の意味を考えるのが普通である。
 1は行動の目的を尋ね、2はその手段を問う。
 普通こういう時、どちらの意味で尋ねたのか、その場の雰囲気や状況で大体推測して、相手に返事する。その返答が的を得ないものであれば、すぐ問い、聞き直す。ところが相手が、ものを言わない場合、人が勝手に、1の意味でか、2の意味でか、それとも両方をまぜこぜにして自分の都合の良い方に解釈して、正しく理解したと自己満足するのである。
 この1と3の意味での「どうして?」即ち行為や存在そのものの是非やその目的(その帰結としての意味や価値も含む)に答えるのが、宗教である。 
 この2の意味での「どうして?」即ち行為や存在の手段に答えるのが、科学である。(*日本人のご利益信心は少しこれとは違うのでこの章の終りに解説。この「宗教が主人で科学が家来」という関係については、 なかなか理解しがたい点があるので、 しかも非常に大切な事なので、後にもう少し考えてみよう)。


どうしての違い


 毎年春、 梅の咲く頃になると「どうして」高校や大学に入ろうか青少年は悩む。だが春も終わりの、 やまぶきの花が咲く頃になると「どうして、 ボクはこの学校に入ったのか」と深刻に悩む者も出て来る。 選択の誤りに気づくのである。
 この同じ「どうして」という言葉でも、 入る前と後ではまるで意味が違うのである。
 彼は、 入る前は入試という入るための手段について悩み、 入ってからはその学校に入ったことの是非やその「意味、価値、 目的 」に悩んでいるのである。
 そんなことならはじめから、 大切な一生を決める入学試験を受けるからには、その目的や動機を自ら問うべきだったのである。 たいていの受験生にその大学を選んだ動機を尋ねると「ただなんとなく、みんなが行くので行こうと思った」というのが多い。
 なにしろ「何のために」という人生の目的がはっきりしないのだから、 学校を選ぶにしても確固たる目的や動機があったわけではない。まわりにいる友だちの動向や、 その場の空気に左右されてしまって、 その学校や学部を選んだのであろう。
 こういうふうに考えればわかりやすいだろう、 学校に入る手段、 人生でいえば生活の手段を問題にするのが科学であり、入学の意味、 価値、 人生でいえばその目的、 意味、価値を問うのが宗教である。
 だから聖書をはじめ宗教書は、後者の疑問に答えるための書物である。
 「どうしてこの宇宙( 自然 )はできたのだろう 」と疑問に思った時、 何の動機で、何のために神様は宇宙を造られたのかを説明しようとして書かれている。 そういう筆者の意図を正しくとらないと、とんでもない見当違いの解釈をしてしまう。
 多くの人は聖書のはじめ( 創世記の一章から二章にかけてある )宇宙創造の記述を読むと非科学的だと一笑にふす。だが一方、 あるキリスト信者と称する人たちは、 これは科学的だという。 これはどちらの意見も見当はずれである。
 聖書のはじめには宇宙( 自然 )はどうしてできたのか書いてある。 だがそれには宇宙のできたわけ( 神から言えば本質的動機 )を書いている。 だから決して出来方の過程、 仕方、方法なるものが書いてあるのではない。 (日本語の「どうして」という言葉には、 How〔 どんな方法で、 いかにして 〕」とWhy〔 どういう理由で、 なにゆえに 〕のような区別がない。 そして「どうして」と尋ねる時は、主に前者のHowの意味で語っている。 ということは、 物や人や物事のすでに有るものに対し、その存在の是非、意義、意味、目的について、あまり疑問をいだかない精神構造をしていると思われる。 )
 自然科学は前者の手続き、 手段、 方法を問う。 これに対し宗教は後者の存在の是非、理由、意味、 価値、目的、 目標、 動機を問う。
 だから聖書のいう天地創造と自然科学の結論とは合うわけがない。 イヤ合ってはいけないのである。ところが、 こういう基本的な事がわからない宗派、 教派は、 「聖書は科学的です」という。
 ( そういう事をいう人々は自らの説いている教説が如何なる根拠に基づいているのか、自らが何をめざしているのか、全くわかっていないのである )。
 科学の進歩は農業の分野でも例外でなく、誰でも食べたいご馳走が食べられるようになった。だからといって、何を食べるかは食べる者が決めるのであって科学や食物それ自身が決めるはずもない。住む家も広く美しいものを建て住めるように成った、しかしだからといって「ここにお前は住め」とは、科学や家自体が命令できるわけではない。これは着る服、飲む薬、見るテレビ、利用するコンピューターなども同じであろう。この様に科学の進歩がもたらした生活の便益や豊かさは計り知れない。今後もますます便利になるにちがいない。
 しかし、いくら進歩しても出来ない、やれない事がある。科学の進歩で発明,発見され、改良進歩した道具や機械や薬や技術、その知恵や知識でも、それはあくまで用いる人の僕であり、用いる人の主人にはなり得ない。即ち機械や道具や技術が人に用いられ支配されるのであって、人がそれら(科学の発展の結果出来た物)に用いられ支配ることはない、あってはならないことは言うまでもない。ところが、酒飲みが酒に溺れ酒に飲まれ、やがて酒に支配されてしまう様に、機械(科学)に人が支配されるようなことも起こり得るのである。
 人間の科学的知識は自然への鋭い観察の結果、 道具から器械、 器械から機械を産みだし、生活を便利にした。 しかしいくら便利になったといっても、 それを使う人間の生き方について、機械が主人である人間に命じることはできない。


 手段と目的の関係


  「自由ということは勝手きままにすることとは、全く違う 」という言葉を、よく偉い先生から聞いてきた。これには一つの間違いがある。 言葉の定義と実現手段の混同がある。 自由の定義は、辞書に「こころのまま、おもいどおり、 わがまま、 かって」とあるように、 自由とは、”勝手きままにできること”のはずである。
 だが勝手きままにしておれば、 自由がなくなってしまう。ーーーだから、 この先生は後者の意味でこれを語られたのである。
 人間のすることには、 すべて目的と手段がある。 そして目的を成し遂げるためには、手段という道を通らざるなえない。
  しかも利益を得るという目的を達成するには投資をするという手段を経なければならないように、 やることが正反対である点に問題がある。 それに手段は目的を忘れるほど徹底する方が、目的を遂げやすくなるという問題がある。 即ち、上手な商売人は自分の金儲けという目的を果たすために、まるで正反対の様子を装い、 「お客様の方に儲けていただきます」と言う。 また事実、彼らはこれに徹するゆえに、 本来の目的を忘れているほど客に奉仕するものである。だから、 これらは非常に混同しやすい、 くり返すが、 することの内容は全く正反対である。
 特に日本人はこの両者を分けて考えることができない傾向がある。 手段の目的化あるいは目的の手段化である。 この手段と目的の関係は、 農業でたとえれば、 手段は種蒔きで目的は収穫になる。 前者は捨て、 後者は拾うのでまったく正反対になる。
 種を蒔くのは収穫のためであって、 地にうずめて腐らせるのが目的なのではない。同様に勉強は知識を取り入れるが、 それはやがて必要な時、 取り出す事が目的である。資本家は資金を事業に投資する。 それは損をするためにするのではなく、 投資以上の利潤を得るためである。
 信仰は自分( 罪の姿 )を捨て、 それによって本当の自分( 神の姿 )を得ることにある。神に仕える事で、 逆に神が仕えてくれる。
この目的と手段を取り違えては、 することすべて失敗、 その人の人生は不幸になる。生きるために死に、 収穫のために蒔くのに、 それをとり違えれば生きるものも死に、収穫されるベきものでも収穫に失敗する。
 幸せになるためには不幸を耐え忍ぶことがなければならない。 また命を得ようとおもうなら、命を捨てるぐらいのこともしないといけない。 だがイエスは言う、
  自分を捨て、 自分の十字架を負うて、 わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。      (マタイ福音書一六章二四節、二五節)
 だが決して死が目的なのではなく、 不幸が目的なのでもない。 あくまで手段は下僕、目的が主人にならないといけない。 手段があまりに効果的であると、 これが目的になってしまう。下克上、 乗り取りがおこる。本来家来であるものが主人になってしまうのだ。
 日本の学歴信仰がそれである。 おけいこ事、 文化教室の繁盛がそれである。 それをやっている人たちは、それが何に役立つのか考えようともしない。こういう習い事は役立たなければ何の意味もない。だから先進諸外国では、 日本のように猫も杓子も大学に行くようなことはない。
 昔の日本軍は、 中国に上陸した当初から、 目的を喪失していた。 あってもそれがどんどん周りの状況( 環境、 場 )に流されて変貌していった。 そして遂には、 戦う事それ自体に意味があるかのように、手段がそのまま目的化していったのである。
 そして同じ失敗を何度でも繰り返し、 敵に勝つ( それは生きる )という目標がいつのまにか、死ぬこと( 敗北 )に変転してしまった。
山本七平氏は自らの軍隊経験を元に著した「私の中の日本軍 」という本の中で次のように書いている。
 日本軍は原則として全兵士が歩いた。 ――その行軍の過程では、 一切の思考力を失って、夢遊病者のようにただ歩いても、 それが当然である。 ( 上巻74頁 )
戦死とされているが実は餓死なのである。 ( 同106頁 )
 自らの目をつぶした大蛇が、 自分の頭に描いた妄想に従って行動し、 のたうちまわって自滅した。日本軍への私の印象はそれにつきる。 ( 同29頁 )
日本の兵隊に潜在的にある自滅、 あるいは玉砕への指向は、 武士道のバイブルともいわれる「葉隠」にすでに表れている。
 武士道とは、 死ぬ事と見付けたり、 ――ー毎朝毎夕、 改めては死に改めては死に、常任死身になりて居る時は、 武道に自由を得、 一生越度(おちど)なく、 家職を仕果たすベきなり、 ( 三島由紀夫著葉隠入門67頁 )
 日々死ぬ事が自由の道であるといっても、 武士の務めを全うすること( それも生活の手段である )に目的があるはずなのだ。 しかし武士道においては、 その「日々死す事 」という手段がいつの間にか目的と化している。
 この伝統は今の日本の会社員にもそのまま生きているのではないか?会社のために、人生を捧げる企業戦士----世界中に活躍する日本ビジネスマンの無目的な経済活動などは、昔の武士、兵士と似てはいないか?
 使徒パウロは「いつもイエスの死をこの身に負うている。 それはまた、 イエスの命が、この身に現れるためである( コリント人への第二の手紙四章一0節 ) 」と同じようなことを書いている。だがその目的は、あくまで生のための死(死のための死ではない)と、はっきり断っている。
 手段が目的になること――ーそれは汎神論的宇宙観(科学や無神論や仏教)の行きつくところである。この考えでは、神が即ち自然である。 だから人の到達すべき目標( 理想 )と今有る環境( 現実 )とは同質である。 それだからこういう考えに生きる人々の言動には、 手段も目的も区別のない傾向が出て来るようである。
 無目的で、 何のために生きるのか、 何のために生かされているのか、 そもそも問いかけがないのである。日本の社会では、 たいていの集会の席で誰も発言しない、 恐ろしいまでの寡黙であが。それはどうも単に「沈黙は金 」 「目立ちたくない 」というだけではなく、 「さしたる意見も持たない、考えない。 特に意味や目的について考えない」 というのと関係があるようである。
 道具、 機械、 器、 衣服、 薬そして学校や会社や地域や国や宇宙自然という場も、あくまである目的のための手段である。 だがらそれらの扱いから在り方まで、主人である人間あるいはその成員が、指導権を握るべきである。 そこに生きている人間の方がそれらより大切だからである。
 よく「生きる(目的)ために食う(手段)のであって、食うために生きるのではない」という言葉を聞く。しかし、こういう言葉があるということは、目的と手段を逆にしている人が”如何に多いか”ということであろう。今日も、食うために生きるのですネ!諸君!
 そういうと、今日出会ったオッサンは、「わしは(酒を)飲むために生きているのじゃ!」と言ってたな!


 日本人の宗教観は少し違う


 日本で信心するとは、困った時の神頼みという言葉にあるように、ご利益を求めることと思われ、弱い人間のする事と解されている。これは信心が、人の生きる目的を問うのでなく、生きる手段を問うものと化している。神様は人の願いを聞き届ける下僕、家来となっており、人の上(かみ)でなく、人の下(しも)になっている。豊かになるため、幸せになるため、神をただ利用しょうというわけである。しかし本来、神とは、人の上(かみ、うえ)のはずで、その幸せの意味を決め、人の生きるべ道(即ち何が善で悪か=善悪を知る木のものさし*)を定める者のはずである。
 ”はずである”と言ったが、現実はそうでない。日本人のこうゆう本来の神的役割をするものは、生活の場である。具体的にいうと所属の地域、学校、会社、職場、そして世間や時代の空気というものであろう。即ち日本人の神は、これらの場なのである。それは農耕民族の習慣として自然に生まれたものであろう。
 それにしても、誰もいない真夜中の交差点の赤信号で、停止しし続け、誰もいない電車の車両に出入りするのに、車掌が入り口でイチイチ頭を下げ挨拶するというのは奇妙ではないか。こういう行動があるということは、その場にそこを支配する神のような存在を感じるからであろう。 こういう事にはじまり日本の社会には、どうもわけがわからない儀礼的行為や行事が多い。人の目を気にし、妙に周りの空気を気遣い、自由になれない。こうして、和(わ)を重んじるのは良いとしても、それが、むやみに成員をしばる輪(わ)のように思えなくもない。
 私たちは、ガンバレという言葉と共に、一生懸命という言葉が好きで、よく使う。これは元、一所懸命と言う字を書いた。 一所に命を懸るのである。命を捧げるほどの一所とは、その自分の置かれた場所を神の様に考えているのであろう。




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