B 有ると有るべき(事実と真理)


 裁判官のおしごとは、犯人を裁く事だ。それにも二段階のサバキが伴う。それには,まず、確かにその犯人が犯罪を犯したという確証を得ねばならない。その上で、法に照らして刑罰を定め言い渡す。事実の認定とその評価の二段階の裁きである。
 ことは裁判だけでなく、私たちは日常的に、この二つの作業を同時的に行っている。
 例えば、買い物に行く、安い肉が売られている。するとそれは、何肉か,上質か下質か、新鮮か、値段の割にどうか、事実を調べる。そして次に、それを自分が買うに値するかどうか考える。モノの事情だけでなく、買い、料理し,食べる自己の都合を考え、丁度欲しいもので、買う余裕があるかどうか財布と相談するということになり、丁度それでよければ買うという事になる。
 科学というものは、その店頭にある、個々の物を正確に把握し、知らせる段階にとどまる。ところが普通人はそれを買い料理し、口に入れるまでしなければ生きていけない。宗教はその全部を考え、最善は何かを説き明かそうとする。前者は"有る姿”即ち事実を明確にし、後者は"あるべき姿”即ち真理とは何かを語る。


よくヤル事実と真理の混同


 A氏がドロボウをやった場合、 事実は、 A氏がドロボウをやったという事の判断にだけにとどまる。
 これ対して、 真理は「今ある姿」いうのではなく、 「あるベぎ姿」をいう。だから、A氏がドロボウをやった事は、罪悪で正しいことではないという評価を下す段階にまで至る。
 だからこの事実と真理の関係を整理して言うと、A氏のやったことは事実であるが、A氏は( 人としての )" 真理 "の状態にはない、といえる。
 したがって、真理は事実に価値をプラスしたものを本質的に持っているのに対し、事実は、そのうちに価値を含んでいないから、 何らこの価値評価を下す素材を持ち合わせていないのである。 ( 価値は、 客観的事実の側にあるのではなく、 人間主観の側にある。 だから、ある真理の基準とする価値判断において、客観的事実は、 素材を提洪するだけであってこれに価値を付加するのは、 あくまで人間である )。
 そこで科学が、 実験、観察を通して、 事実を発見し、 これを分析し、 さらにこれらより、法則を発見するだけに終わるなら、その分を超えることなく、 科学の役目は、 その力相応の働きをしている。 ところが、科学が、 価値評価を下すことができる( 事実は、 いくら集めても事実であって、真理にはならぬ。 したがって、 最初からこのことは不可能なのだが)には、 事実とこれを支配する法則を超えて、世界や人生を支配する原理を発見し、 さらに人間のあるべき姿を追求していかなければならない。即ち、 科学は、 科学を超えて哲学に移行せねばならぬ。 形面下より形面上の問題を扱わねばならなくなってくる( ところが実は、 このような複雑な手続きを経ているうちに、 これは人問がするのだから人間の主観のもつ価値がこのうちにいつのまにか入り込む )。 そこでこの哲学の方法もまた、 帰納的即ち、 科学的でなければならないし、また、 基本的資料も「事実 」を採集したものである。
 今、 この資料となる事実がどこからでたものであるかというと、 それは、 自然を見渡し、これを観察し、実験できるものは実験し、 人間から始まり、 アメーバやウイルスに至るまで、 調べられるものは調べては採集してきたものである。したがって、 これは、 生命のない自然より採集したものとか、 人間や人間より低級な動物の社会より採集したもの等によって成りたっている。
 だから、 これらの資料よりでき上りた哲学には、 自然はこのように運行しているのだから、我々もこうすベぎだとか、 世の中は、 昔からこのような礼会集団の法則によって動いているのだから、我々もこの法則通りの行動をなすべきだというような思想が生まれてくる。 いずれにしても、自然や人間社会の事実や法則に我らも従うことが正しいのだという結論しかでてこないことは、最初より明らかなことである。
 人間にとって、 自然や人間社会の事実や法則は、 あくまで手段であって、 目的ではない。それがいつの間にか手段が目的にすり変えられ、本末転倒の世界を作り上げてしまっているのである。 我々人間は、 自然や人間自身が作り出す社会の支配的な事実や法則より、自由であり、 人間は、 人間を取りまく自然社会を支配管理し、 これを人間のために使う方が正しいのであって、自然や社会のために、 人間がいるのではない。
 科学は、 最初人間の生存と繁栄のための手段としであった。 ところがいつのまにか、あまりにこの手段がすばらしいゆえ、 目的にすり変えられて、 人間の命とは何か、幸福とは何か、 何のために生きるのが・・・・・・等の人間の生きる目標までも定める力があるかのように錯覚しはじめているのである。
 いうまでもなく、 人間を取りまく環境、 即ち宇宙、 自然それ自体や、 社会自体に真理、即ち生命があるわけがなく、人間以下のものに、 人間の行くべき道( 生きる目的・価値 )を尋ねてもわかるはずがないのである。
 ところが、現今の大概の知識人でも「科学は、 事実を真理とみ、 逆に、 真理とは事実にあるという信仰の上に成り立っている。即ち、 科学には、 事実( ある )と真理( あるべき )との間に区別がない」ということすら知らない、気付かない。当然問題にすらしない。
 宇宙、 自然は、 それ自体神が造った船や自動車に譬えることができる乗り物であって、神が運転し、 人間は助手席か後の座席に座っている状態にある。 だから、 自然はいかなる目標に向かって進んでいるのか、そして、 自然の中にいる人間は、 どこへ連れていかれるのか、 両方とも運転手である神に尋ねるしかないのであって、乗り物自体に尋ねても教えてくれないのである。 当然であろう。ところが、そういう愚かな事をいつまでも万物の霊長である人がし続けているのである。
 また、自然や宇宙は、 ラジオやテレビと同じである。 幼い子供は、ラジオやテレビの中でそのまま耳に聞こえたり目に映るとおりに、箱の中で演じていると思っていると思っている。 けれども、 成長すると分かってくるように、放送局というのがあって、 そこでつくられた音や映像が電波に変えられ、 それが空間を飛び、遠く隔った自分の家にあるテレビやラジオのアンテナに入り、 再び音や映像に変えられるのを知る。
  これと同じように人間は、 賢明になればなるほど、 自然や宇宙には、 音や映像( 意味・価値・目的 )の原因がないことを知る。 そしてそれら「地のもの」が、 単に天 ( 神 )の放送局にすぎないことを悟るのである。(しかし後に述べるように、自然は神の創造物だから、そこに神のメッセージが書かれている。だから、自然を探求すれば人の生き方まぜ分かると長く考えられてきたのである。この考えが科学を発展させた。これで確かに、生きる方法や手段は分かり非常に便利になった。が、しかし、その目的や意味はまでは分からないはずである。)
  もちろん、 我ら人間は、 自然よりはるかに秀れたた受信機であるから、 信仰というスイッチを入れ、祈りを通して天の放送局の周波数やチャンネルに合わされるならば、 直接神の声を聞くことができるのである。人間は、 前者のように間接的にせよ後者のように直接的にせよ、 神の波長に合わされなければ、この世( 自然宇宙 )に生きることの真の意味が見いだせないのである。


土台と建物


 人間は、 何物かと関係を持つ場合、 まず第一に、 その対象が牛であるか、 馬であるかという事実を明らかにせねばならぬ。これが明白になると、 第ニに、 この事実が自分と関係を結ぶに価するかどうかという意味づけ、即ち価値判断が加えられなければならぬ。 この第一の事実は、 丁度建物の土台であり、第ニの価値評価は建物である。 これらを全体としてみる時、 真理あるいは非真理( 虚偽 )と呼ばれる。
 聖書も同様であって、 聖書は読まれ、 まず何がそこに書かれているのかという事実が明らかにされなければならない。ビルにおいて、 土台がしっかりしていないと、 上の構築物は立ちえないのと同様、事実ではない虚構の上に真理は立ちえない。 そこでこれが力説されるあまり、 事実ばかりが問題にされ、追求され、ビルを作る土台を、 しっかりしたものにしなければならぬという考えが強すぎて、穴ばかり掘りている者がいる。 ( 聖書は、 岩磐が露出した土台であるので、 聖書にかかれている事を、そのまま認めれば、 天に届くようなビルも建てられるのである )。
 また、土台さえ完成すれば、 ビルは、 竹の子がはえるように、 放って置いても建つのだと思っている者もいる。< その思想には、 事実の中に最初から価値(即ち命あるものより生じるもの)が、含まれているという考えがある。
 キリストが、 処女マリヤより生まれたというのは、 本当か、 ウソか調べても、その結果は、 事実を明らかにするだけだから、 土台を築いたにすぎない。 また、聖書の原典を研究したり、 言語の成り立ちを調べたり、 聖地を掘り起こし、 考古学的調査をしても、それは事実を明らかにしたという、 建物の土台を固めたにすぎない。
 だから、 聖書の原典がスラスラ読めても、 聖書の物語や、 御言葉をすべて記憶していても、それは事実にすぎぬのだから、 その人の信仰とは、 なり得ない。 即ち、 原典は読めても、御言葉を暗記していても、 聖書には何が書いてあるのか分らない( ヨハネ3・27、第一コリント2・10−14) 。 それは学問(事実)であり、 信仰( 真理 )とはなっていないからである。 事実,イエスのそばにいて、生身のイエスにじかに触れ、彼の言葉を直接に浴びるほど聞けた人々がイエスを必ずしも信じたわけではない。
 キリストが十字架にかけられ、 死んだということは、 歴史上の事実であった。これは絶対にウソではないと信じたとしても、 第一の土台の作りだけが出来ただけであって、第二の意味づけが、 少しもされていない。 この意味づけをするのは、 事実を明らかにすることを本分とする科学的方法によって出来ることではない。まして、 事実の中に意味が生まれるはずがない。 なぜなら、 事実とは、 まだその内に命のないものであるからである。


あるがあるべきを決めてはならない


 このように、有る( 事実、 現実 )は有るべき( 真理、 理想 )とは基本的に違うということである。少なくとも有るべき姿が有る姿を決めないとおかしいのに、 現実には有る姿が有るべき姿を決めている。
 誰もいないレストランに入れば、すぐ食事に有りつけるが、なんとなく悪いことをしているみたいで、居心地が悪く食事も美味しいとは思えない。満員のレストランは注文してもナカナカ食事が来ないが、大勢いるからか美味しいと思う。ミニスカートもそれが流行れば、誰でもきれいに見え、恥ずかしいとは思えなくなえる。しかしそれが、自分だけだとダサく、恥ずかしく思う。みんながしていることをしないと、誤りと思う。みんなが戦争に行くのに、行かないのは、罪悪と考えてしまう。同様に自分の頭の中にあるものは正しく、良く,慕わしく思う。 しかし、はじめて見る見知らぬものは、悪く、違和感を感じ、良くないものと直感する。
 ここにも有る、あそこにも有るというものは、ここにも無い、あそこにも無いというものより、正しいと思う。同様に昔から有るというものは、それだけでも正しい良いものと思われ勝ちである(明らかにその存在が有害と思われるものは例外だが)。
 この様に、「ここではあそこにもある、 ここにもある、 昔もあった、 ――ー」というたくさんある事が人間のあるべき姿となってしまっている。沢山とは、 「昔からある 」というのと「今みんなしている 」というのとの十字砲火の結果で、これが人間のあるべき姿や行動を決めてしまうのである。
 この論理に、 いなかの婦人会から一級の大学の研究室、 右翼から左翼まで犯されている。昔からそうだった。自然はこのような法則に支配されている。 動物の世界はこういう秩序に貫かれている。お前も、 この大自然の中の人間という動物の中の日本人。 だから無論おまえもそういう周りのものと同じくあるべきだ。――ー伝統は正統で、正答。二千年も続いた、 だからそれだけで正しい。 こういったバカバカしい論理がまかりとおる。
 そんな事がいわれるなら昔からチョンマゲを結ってきたとなれば、 チョンマゲにせねばならない。また代々酒飲みの家系ならその家の息子も酒飲みにならねばならないことになる。人類の歴史を調べると戦争が絶えない。だから戦争すべきとなる。階級闘争をしてきたというなら今も階級闘争をしないといけないし、自然界は弱肉強食の生存競争をしてきたのなら、 どこでもいつでも競争せよということになる。 
 A子は万引き常習犯だ。いつもずーと続けてきた。だから、万引きが正しいとはならない。 ゴキブリは、人類より遥か昔から生存してきた。 だから、人より正しい存在である云々ということにはならない。
 この例のように、こういう考えが如何に間違っているか、 今更いうまでもあるまい。科学は事実について調べられても、 人間はどうあるベきかはいえない。 自然(宇宙 )がどうなっていようと、昔から人間がどうしてこようと、 人間のあるべき姿は、人の足の踏み場である自然により決められるのではない。
 また人間個人の理想とすべき生き方は、 社会のありかたで決めてはならない。それは反対であって、 社会のありがたを決めるのが各個人だからである。
 そういう意味で聖書は、 人間の生活の場である環境( 大自然と社会 )を神とする人間の考えを断固否定するのである。場は支配されるべきものであって場に支配されるものではないからである。だが人間は長い問、 この考えが理解できなかった。
 そしてやっと自我の目覚めなるものがいわれたとたんに、 自然科学のもたらす知恵が、あたかも人間のあるべき姿まで決めてくれると思い込みはじめたのである。
 <*ただし、この例外を述べておこう。西欧人と日本人の買い物の仕方の違いについてである。それは某神学校でのことだ。西欧人K夫人はOOOのフランス料理を作ろうと決めると、何が何でも、その通りにそのフランス料理にする。 ところが、その下でメイド的に仕えているM子は市場で安いいものがあれば、それで出来る料理を考え、今晩のオカズは「これにしょう」と決める。この方が安く済むに決まっている。ところが、これが、K夫人には絶対に出来ない。西欧人が全部K夫人の様だとは思わないし、日本人が皆、M子の様だとは思わないが、西欧人は原則(かく有るべき)が先で、日本人は出たとこ勝負で周り(かく有る)に合わせる、という傾向が強いのは否めないだろう。
 西欧人は騎馬民族のせいか、キリスト教の影響か「有るべきが有るを決めるべき」と考え,日本人は農耕生活のためか、佛教の影響か、「有るをみて有るべきを考えよう」とするようだ。生活の手段の面に限定すれば、後者の日本人の方が賢明で、合理的である。しかし、人は何のために生きるのか、生きる意味は何か?という生きる目的の問いには、後者の考え方では, 答えは出ない。
 日本の都市には都市計画というのがない、有っても徹底しない都市が多い。無計画に宅地を造成する。だから、狭い道のしかも曲がりくねった袋小路に家々が立ち並ぶ、不便この上ない。はじめにまっすぐな大路をつけ、さらに碁盤の目のように道をつけて、家々を建てれば景観も美しく、便利で,互いの土地も活かせる。土地の値打ちがまるで違う。はじめに言葉(計画、理念)ありき(ヨハネ福音書1章1節)で、土地も人生もこれで貫く事が出来れば幸いである。いかたりばったりの出たとこ勝負の試行錯誤より、この方が良いに決まっている。しかしそれには、大所高所から、理想の都市(人生)とは何かを考え、将来を正しく見通す知恵が必要なのはいうまでもない


事実と真理


 事実と真理を区別しない人が多い。 事実は今あるすがたであるが、 真理はあるべき正しいすがたを指す。
乾燥した砂漠地帯の住民は常々、 目前の大地ではその様が事実であっても、大地のあるべき姿でない、と思っている。
そこに大雨が降る、 そうすれば不毛の大地に草木の芽が出、 花が咲き乱れ、 鳥が飛び、蝶が舞い、 家畜たちが駆けるようになる現実を何時も見ている。 事実が真理になったのである。死の地獄が生きものの充ちる天国になったのである。
  神よ、 あなたは豊かな雨を降らせて、
  疲れ衰えたあなたの嗣業の地を回復され、
  あなたの群れは、 そのうちにすまいを得ました。     ( 詩篇六八篇九節、一0節)
 このようにして乾燥地帯の人々にとって天国、 いのち、 幸福、 真理などはすべて雨とともに神のおられる天から来ると信じられる。
 ある若者が身体はどこにも異常がないのに、 棺箱が近い年寄りのように、 毎日なにするともなく無為無駄に過ごしているとしたら、それが事実であるにしても、 それは若者のあるべき姿、 真理ではない。
 だがこういう若者に天の神がいのちの言葉を与え、 いのちの雨、 即ち神の霊を注ぐならば、彼は死人が蘇ったかのように立ち直り、若者本来の姿に立ち返る。 こうなれば彼は若者としての真理の状態になったのである。
 事実イエスは「 その死人を葬ることは、 死人に任せておくがよい( マタイ福音書八章二二節 ) 」といい、 「 耳しいは聞え、 死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている( マタイ福音書二章五節 ) 」と語る。
 このような例から考えれば、 事実( 死 )に価値( イエスの言葉 )が加わり、 神の創造の目的の下におかれるならば、事実は真理に移行する。
 宇宙万物は神の創造の手になある。 だがそれも彼の御手を離れるに従って、 その創造本来の姿( 真理 )から離れていき、 その創造目的に合わなくなっていく。 即ち用をなさなくたったから、その存在意義、 価値を失っていく。
 こうみると創造という言葉の中には、 創造主の「目的 」とそれに合わせて造られたものの「内にある価値」が含まれているのがわかる。 だから創造主の意図、 目的に合わなくなったものはその存在と生存の意義、価値を失う。 そうなればそのものはいのちを失い、 破壊される。 ということは造られたものは絶えず「何のために造られ生かされているのか 」自問することが望まれる。 神が造られた「自己のあるべき姿 」から見て、 今ある自分の有様はどうか、 比べることになる。自己の存在意義を問うのである。
 ところが宇宙自体が神であるとか、 それを神様が生んだとか、 それに神々が宿るという考えや信心では、こういう問いかけは生れがたいのではないか。 事実と真理、 理想と現実の差はできてこない。
 今ある現実は、 その現実が神なのだから比較するものがない。 だからこれを変えようなどという発想は起こりようがない。たとえ現状は不満であっても、 何ごとでも運命的、 宿命的なものとしてとらえているから、これを直そうなどとは思わない。
 こう考えていくとき、 この在る姿( 事実 )と在るべき姿( 真理 )を、 即ち現実と理想をまず分けて考えられることが、科学や文明の発展や、 社会の進歩にとってどれほど大切か、また一人の人間が命の在り方を百八十度変え、纖悔し、 地獄行きがら天国に凱旋するのにどれだけ大切であるか、 わかろうというものである。
 今わたしは飢え貧しく罪ぶかく、 不毛の荒野に立つ、 だが天の神のもとには富と正義と命がある。神はこれをわたしに惜しみたく与えたもう。 ――ーーこう思うとき人は生きる。




もどる