C 見るだけの人と、それをする人(客観と主観)


見るだけの人とする人との違い(宝くじは買わない限り絶対当たらない)


 我が市はスーパーやデパートが多く、客の奪い合いがよくある。有る日、某スーパーの通路に、「見るはそごう、買うはダイエー」なんてえげつない看板が出ていたのであきれる。店にしてみれば、見るだけで買わないウインドゥーショッピングというのは困る。
 生活が豊かになると、こういう見るだけの人、言うだけの人が増え、する人が減ってくる。同時に、この逆に”する人”が増え、見る人、聞く人が減っている所もある。劇場や映画館であろう。人に見せたいという演技をする人は増える。しかし演技は芝居だから、虚構の世界だ。見たがる人と見せたがる人というわけで、どちらもいわばする人でなく、見るあるいは見せるだけの人だ。.
 コンサートなどに歌を聴きに行くのと、自分も共に参加して歌うのとはマルで意味が違う。ダンスなど、ただ見ているだけと、自分がダンスするのとは、その楽しさの違いは非常に明瞭であろう。人気のスポーツでも見るスポーツとするスポ−ツでは意味が違う。見るだけでは、身体を鍛える事にはならない。同じものでも「見る」と「する」とではまた大違いである。面白さがまるで違う。競輪、競馬、競艇などの賭け事に行き、ただ見ているだけでは、損はしない。しかし絶対それで、儲けることはない。
 宝くじは買わない限り絶対当たらない。これは当たり前の分かりきった事だが、「ただ眺めているだけでは何も得る事が出来ない」という極めて大事な真理だ。今日、このただ見ているだけで、それに参加している様に錯覚している(おまけにその錯誤に全く気付かない)と思っている人が非常に増えている。少しも係っていないのに、さも自分は係っていると考え、宝くじ(仕合せ)の配当がもらえるとすら考えているのである。テレビをいくら見ていてもテレビゲームをいくらしても、どんな読書をしても、現実とは何ら関係ない。現実を生きていない、虚構を生きているのだ。ところがそういう人ほど、人生の真理を悟ったと自惚れ、他を見下すのだから始末におえない。
 昔、イエスは群衆を集め、室内や広場や湖畔でよく話をされた。
  多くの人々が集まってきて,もはや戸口のあたりまでも、すきまも無いほどになった。そして、イエスは御言葉を彼らに語っておられた。 マルコ福音書2章2節
 ここに2種の人がいるのが分かる。信じるものと信じないものである。その信じる人々の中にも2種の人がいるのが分かる。心から信じるもの、ただ人事のように傍観するものである。一応信じ肯定するが、それほど積極的に係るつもりはなく、ただそれらを傍観している者たちである。今日、どこの寺院や教会の礼拝にも二種類の人がいる。礼拝する人とそれを見ている人である。前の方に座る人はする人で、後ろの方の人は大抵、それを見ている人である。見る礼拝とする礼拝は違う。ただ傍観し、観察しているだけなら信じる必要もない。しかし礼拝する人は信じねばならない。賛美し祈り献金し交わりに参加せねばならない。しかしただ眺め見ているだけの人は、身体は参加しているが、心は不参加でおれる。
 世の中にも(疑い敵意をいだく者は別にして), ここでいうような二種の人がいて、それぞれ自分の立場をそのまま言い得(大抵それに気付かない)て、あるいは弁護して自己の見解を述べる。どちらかと言うと、おしゃべりやペンを持つ知者は大抵「事をする人でなく、見るだけの人」である。昔から賢者や聖人と称する人々が人生や自然についてイロイロそれぞれの見解を述べる。しかし悟りを開いたナンテ言い、非常に立派な事を述べても、所詮それは、その人の傍観者という生活態度を物語るに過ぎない。その意味で、それは奇妙で歪んだ思想や意見なのである。なにしろ生活する人ではないのだから。当然、結論は自然宇宙は”空”であるという事になる。というのは、彼らは それら生活の場に対して無(空)関係でいたのだから。
 傍観者で居れる人とは、要するに仕事をしていない人で、金持ちか乞食か遊び人であろう。修業僧などという宗教人の多くも、所詮他人の金で生きる怠け者の乞食か遊び人の類であろう。そういう生き方が「如何に文化的で高貴か」を説く様々の屁理屈、それが、星の数ほどというより、ゴキブリの数ほど有る、様々の宗教書や哲学書がそうなのではないか。
 その代表例として、そういう働かない金持ちを蛇蝎の如く嫌い、「宗教はアヘンだ(故に宗教家はアヘンの公然売人)」とまで言いきった共産主義思想の創設者のカール・マルクスはどういう生き方をしたのか?
 ナント彼は、大金持ちの未亡人の愛人として、生活していたのである。だから、そもそも彼の説いた共産主義思想なるものは、ヒモ生活正当化のため考案された哲学思想なのである。だからそういう思想に感動するものは、マルクスのような生活をしている者(親のすねをかじる学生や女の愛人になったヒモやマルクス政党の政治家)だけと言う事になり、当然、「誰にでも(怠け者にも、ヒモにも、見ているだけのものにも)平等の賃金を出せ」と叫ぶことになる。ところが、学生をやめ、いざ働くとなると、傍観者をやめ、”生活する当人”になるので、直ちにこの思想の誤りに気づく。
 これは、そのまま古今東西の宗教家にもそのまま言えるであろう。自分の傍観者としての生活の正当化のため、高貴な宗教や哲学を利用する。だが、そもそもその高貴なそれ自身、食わんがために汗水たらしてやった重労働なんてものとは、反対の「傍観者の生活」の中から生まれたものだから、どんなに修業がつまれ、学問研鑚がされたものであれ、見ているだけの域を出ない。結局、彼らは善男善女の寄進で生活するのだから、乞食や遊び人と同じ部類の人々なのであり、その説く教えは現実の生活からかけ離れた無意味な虚構の屁理屈でしかない。
 オウム真理教といえば、邪教魔教の代表であろう。かのサリン事件の起きた時、とんでもない宗教だ、と世間は騒いだ。その際、「他の宗教にはそんな点は微塵もない、正しい教え、立派な人々の集まりーーー」ナンテ報道機関は言い続けていた。そしてその言葉を大衆は皆信じたようだ。
 しかし、教祖麻原は笑ってるだろう「俺と他の連中と何処がどう違う、俺は急ぎポアしたが、やつらは分からぬようにゆっくりポアする。やっている事は同じで、似たりよったりじゃないか」と。


天動説(自己中心)が正しい?


 人間の涙は水 、塩、 ミネラルその他に分析できる。 またそれが体内でできる過程や、人体に対する影響など知ることができる。 科学の力によってである。
 だがそれは悲しくて泣いたのか、 嬉しくて泣いたのか、 なぜ流されたのかは説明できない。その涙の意味を知ることはできない。 ましてその涙を止める慰めの言葉を用意することはできない。これを知り、 その意味を問い、 慰める力を持つのが宗教であり、 信仰である。
 では科学になぜそれができないのか。
 それは科学が、 個々の一人一人の涙ではなく、 涙一般を調ベようとするからであり、またその人の内から尋ねようとするのではなく、 外から第三者になって見ようとするからである。
 科学と宗教の問題について、 今コペルニクスやガリレオの時代に問題になった天動説と地動説で考えてみよう。(*これについては多くの誤解があるので、終章「科学と宗教の闘争史」で再度扱う)もちろん、信仰の書である聖書は、 はじめからこのどちらが正しいか等、 問題にしていないが、どちらかというと天動説を前提としている。
  神は日のために幕屋を天に設けられた。 ――それは天のはてからのぼって、天のはてに までめぐりて行く。 その暖まりをこうむらないものはない。  (詩篇一九篇四節、六節 )
 日とは太陽のことだから、 これを読むと明らがに聖書は地動説ではなく、 天動説の立場に立っているとわかる。だから聖書は誤りだという者がいる。 だが、 聖書は正しい。
 古今東西、 人間はそれが未開人であれ、 近代の文明人であれ聖書の言葉のように太陽が東から出、西に沈むのを日々見てきたのであり、 これからも見つづける。 これを否定する者はいない。
 正常な人間であれば、 誰もこういうふうに見れる。 ということは、 そういう見方をすることで人はまず生きていけるということなのである。人は自分を中心にものを見、 考え、 感じ、 行動する。 人は他人の空腹より、 自分の空腹に気付く。他人の痛みに感知しなくても、 自分の痛みを感知する。 まず自分を生かすという責任があるからである。
 自己中心的であるからこそ、 まず生物としての人は生きていけるのである。
 地が動くのではなく、 天が動いている( 天動説 )と思う。 ――これは人間が、自分中心に物を見、 考え、 感じるということの代表例である。
 ということは、ネコはネコ的に世界を見、体験し、ネコなりの結論を出し、ネコ的に悟っているのである。しかもそれは誤った判断を下しているのではない。ネコにとり正しい判断のはずだからである。これはネズミであってもゴキブリであっても同じであろう。石であれ、草であれおなじであろう。
 今ここで,ネコがゴキブリを捕らえ今まさに殺そうとしている。それを見てて考えると、ネコにとり正しい観方、生き方がそのままゴキブリにとり正しいそれと言えるだろうか?正しくないに決まっている。ゴキブリやネズミにとり正しい生き方が、ネコ的生き方そのものであるなら、彼らにとり、それは地獄であるので、不正な生き方であろう。
 では聖人君主が考え抜いた、これぞ真理という偉大な「世界観や人生観」においてはどうか、これと同じ事がいえるのではないか。人間にも聖人君主もおれば、ネズミ的ゴキブリ的人もいるのである。
 しかし人間には向上、進歩というものがある。ネズミやゴキブリのように何時までもゴミあさりして人から施しを受けてかろうじて生きながらえてる人から、施し与える人に変わらねばならない。むろんその施せる人にもイロイロあるが、どういう人が理想の人か、どういう人に変わるべきか、その理想の人とは何かを教え、その理想に至る道を教え至らせるのが、宗教である。(ただし、それが、必ずしも大抵進歩向上ではなく、現状維持か、退歩退行の場合が多いので問題だが)
私は第三者の人ではない
 地動説は太陽と惑星の在り方を説明するのに、 自分をこれらの星々を傍観できる宇宙において見るという想定の上に成り立っている。確かにそういう宇宙に出て、この太陽系を見れば太陽が地球の周りをまわっているのではなく、地球が太陽の周りをまわっている。 だから地動説が正しいといえよう。 だが現実にすべての人間は宇宙の某地点に生活しているのではなく、地球の上に生きている。 これを忘れて物事を正しく把握することは不可能であろう。 ( だが現実はこういう足下を見ない恐ろしい論理がまかり通っている。 )
 人が救われるということは、 まず個人的な問題の解決なのであり、 他人ではなく、自分の問題の解決なのである。 親身になってもらえるということであり、 自分と同じ立場で考えてもらえるということである。第三者の傍観者では理解しえない。 王も乞食も同じ人というわけで、私というこの人も、人間一般の中に有ると、十把一からげに考えられたのでは救いようがない。
 宗教は直接そのものと関係しているのである。 科学は間接的にものと関係している。信仰の問題にしている事柄はすべて、 「私とあなた 」のかかわりである。 これに対し、科学は何に対しても何事でも、「彼あるいはそれ 」という第三者の傍観者として、事の外から見ているのである。
 宗教はまず、 私というこの世に一人しかいない自分の生存の在り方を問う。 またこの私から世界がどうなっているか問うている。だが科学は何事も外から見ようとする、 だから自分はそこに居ないのである。 すべて人ごとなのである。 ( だから冷静で客観的に、 だれにも納得のいく見方、 考え方ができる。 その点では良く素晴らしい。しかしこれでは本人の痛みはわからない。 )
 信仰は「わたし」 と 「あなた」 というような神との個人的な出会いである。 だからはじめから極めて自己中心的であり、信じ るという自分の責任が重大となりうるのである。 という事は、 または信仰の対象である神も極めて個人的な特色を持つことになる。当然、 聖書の理解も個人的なものになる。
   人はパンだけで生きるものではなく、 神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。 ( マタイ福音書四章四節 )
 パン( 衣食住 )は科学の力で、 不自由する者は少なくなった。 だが人はそれだけでは生きられない。神の口から出る一つ一つの言葉が必要なのだ。
 この「一つ一つの言 」とは、その時、 その場に応じた、 その人だけに必要な神から来る生きた言葉という意味である。だから神が与えられる言葉(それは今のあなただけに対する神の生きた言葉=レーマという)は、それがたとえ文字となっている聖書の言葉すら、 その解釈もその人にしか通用しないものとなる場合がある。
 キリストはたいてい、 譬え話でもって真理を説かれた。 そのわけはその人の心に応じて信仰が働くようにされたためである。
  あなたがたには、 神の国の奥義を知ることが許されているが、 ほかの人たちには、見ても見えず、 聞いても悟られないために、 譬えで話すのである。 ( ルカ福音書八章一0節 )
 <神は、 この上「真理の御霊が来る時には、 あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう( ヨハネ福音書一六章一三節 ) 」とあるように、 聖霊を与えて、 “ 各個人を真理に導こうとされる。 >
「私は一般(的です。」は有り得ない
 信仰とは、 他人が代わることのできない、 それほど個人的なものである。 そもそもこの世に有るのはすべて個人であり、個物なのである。 人は家一般に住むのではない。 男は女一般と結婚するのではない。会社一般に就職するのでもない。 学校一般に入るのでもない。
 このように、 この自分という、 生き、 苦しむこの人間がかかわるものすべては、ひとつひとつの具体的な個物なのである。
 また私という人間は、この世にある何に対しても、 第三者という無責任な傍観者ではなく、責任逃れの出来ない第一者として直接かかわっているのである。
 こういう極めて大切なことが、ただ眺めているだけの人には分らない。店の外からショーウインドウを眺めているだけなら、楽しい。しかし、イザ服を今買わねばならないとしたら、結構しんどい。今の流行りは何か、自分の好みはもちろん、愛する者の好みも考え、更に自分の体型に合うかどうか、おまけに所持金と相談せねばならない。こういうのを楽しみにする者もいる。しかし、面倒なので出来たら避けたいと思う者も多い。
 事が、服の買い物ていどなら、しんどさも知れている。それが、住む家となり、結婚相手となれば,非常に面倒で、苦労する。なにしろそれで自分の人生が決まるのだから、おまけにそういうのは大抵返品が効かない、簡単には責任逃れができない。
 そういう人生の重大決定を迫られた時、つくずく「どんな人も、無数の家が有るのに家一般に住むのではない。男(女)は星の数ほどいるのに、女(男)一般と結婚するのではない。 会社も多数あるのに会社一般に就職するのでもない。学校一般に入るのでもない。 ーーーーー」と分る。ということは、ただ傍観していた今までは、何も分っていなかったということである。だから、ナンデモ親任せ、国任せで依然として傍観者で有り続けた即ち自分で事を選ばない人は、何も分ってない(分ってないということすらもちろん分らない)人ということになる。(眺めていては分らない、してみて分るまず第一のことは、実在するものは、具体的個別的で、強烈な個性と自己主張を持つという事である。具体例をあげれば、異性を見ているだけとなんらかの関係を持つのとは、マルで違うと体験すればわかる)。
 なお始末の悪いことに、学校で教わる人間とか社会とか、およそそこで習う事のほとんどすべては、公人(あるいは客人)としての人であり、私人個人(当人)としての人でない。眺めただけの人生や世界なのである(日本における義務教育の目的は、そもそも国という親にいつまでも養われる幼児的国民を育てる事であった)。教える教師もまた眺めただけの人がほとんどなので教えるという仕事上、言うだけの人に終る。というのは、学問(今日のそれは科学)とは、基本的に眺めただけの世界を語るもので言うだけに終りがちだからである。だから、教師生活しかして来ない先生や、学者とは、世事にうとい。それどころか、この世のこういう基本的仕組みすらも終生分らず仕舞いなのである。
 信仰とは人が宝くじを買うように、店で天国(神)を買うに似ている(マタイ福音書13章45節など)。服を買うにもイロイロの店はあるのに、店一般に入るのでない、ただ一つの店を選ばねばならない。それにただ無料というわけにはいかない。眺めてる時には無料だが。それに大金を賭ければかけるほど、配当も儲けも大きいという宝くじと似たところがある。
 信仰とは神と私との個人的なしかも人格的交わりである。 そこから自分の周囲の世界にかかわっていく。だから宗教の役割は、 今、 生きている私( 自分 )の有り様が問題の中心になる。
  こういう自分を第一者の立場に置く宗教と、自分を第三者の立場に置く科学の見方やその結論とは、 そもそも合うわけがない。 イヤ合ってはならない(目的が手段に乗っ取られる)と分るのである。
 後に述べるが、 宗教、 信仰は人生や世界、 国家の意味、 価値、 目的、 目標な問題にする。これが定まって初めて科学という手段、 道具の登場する場ができる。 この辺のところを間違えてはいけない。


死の世界


 (一) 真理と事実の根本的な相違は、 事実が単に、 対象の現実との一致を意味するのに対し、真理は事実に加えて、 この事実が、 いかなる意味、 意義内容を持っているかを問う価値及び価値判断が加わってこそ、初めて真理たり得るのである。 ーーーこれは前に述べた。
 ところで、 命は、 命のみから生じ、 そして価値は、 命あるもののみから生まれる。しかも価値は、 価値からのみ生じる。 これを念頭において考えると、 物質と、 これを探求して出てきた事実の世界は、それが死の世界であるから生命がない。 したがって、 これより価値や意味づけというものは、最初からないのであるから、 これらからは生じない。
 そこでもし、 そこに価値とか意味づけが生まれていたとしたら、 すでに、 その事実と称するものに、人間の主観が潜入していることは明らかである。 もし、 人間の主観を、 事実に対し入れたのなら、これはすでに事実ではなく、 誤謬である。 したがって、 主観の入ってはならぬ事実を探求する自然科学は、主観の付加されている真理について論じることはできない。 まして、 人の生きる目的などの哲学や宗教の根本問題等を論じる能力は、ないのである。
 仏典では、 「色即是空 」といって、 現象世界は、 空であって、 実体がないと主張する。これは宇宙、 自然それ自体には、 何の意味も価値も、 これらを生じる原因なるものもなく、そういうものがあると思う事が迷いなのだから、 それを探求することはあきらめなさいといっている。また釈迦より五百年ほど昔ソロモン王は、 地上のものは、 いっさい空であるから、神を知らぬ人生には何の意味もない ( 伝道の書の全章 )といっている。 このように、古代の最も知恵ある人々が、自然をくまなく捜しても、 そこにはそれ自体には、 意味も価値もないのだといっている。
 かくして、 種や根の無い所に、 芽が出るはずがないのと同様、 事実の世界、 即ち、科学をいくら研究しても、 またこの科学に基盤を置く思想( マルクス主義は、 その根底にユダヤ教的価値思想等が混入しているので価値判断伴うのは、当然である )をいくら研究しても、 これら価値や意味や目的等を扱う人間の生き方についての解答を得ることはできない。即ち、 死の物質世界からは、 生の人間世界を指導することはできない。
 ( 二 ) 次に、 科学は、 その方法において、 すでに人間の生き方について論じる資格のないことを考えてみよう。
 科学の方法は、 まず対象を把握する際に、 純客観的にそれらを見ようとする。即ち、 主観の入る余地を完全になくし、 これによって対象を見る。人の主観より来る独断や偏見等をあくまでさけることによって、対象の真実の姿を見ようとする。 ( その根底には、 意識を離れても、 事物は存在するという形而上学がある。 )
 この、 純客観的であるというは、 対象把握せんとする当人が、 第三者即ち傍観者の位置にあり、常に公正な判断がいつも下せる立場に、 自分を置いているということである。そしてこの第三者に、 自分をおいているということは、 自分が、 いつも当事者に決してならない(即ちお客さん)ということである。このような自分自身の、 第三者的位置づけこそ、 科学的態度の本質である。
 したがって、 事実の真相が正しくつかめたとしても、 自分は決して、 事実の当事者にはなれない(見るだけの人)という問題を最初からかかえているのである。即ち、 科学は、 他人の存在をいくら問題にできても、 実存(自分の存在そのもの)を問題にすることは、できないのである。
 だれにでも明らかなことは、 生きている人間は、 生きていかねばならぬという生存の根源的使命を帯びている。この私が、 生きていかねばならぬという事は、 第三者の問題ではなく、 当事者である私の重大、最大の関心事である。 これに対して、 科学は当の自分を、 第三者の立場(見るだけの人)に追いやることをその本質的方法とするのだから、科学には、 幸福とは何か、人は何のために生きているのか、人はいかに生きるべきか等の自己の生存や命の意味には、少しも触れることができないし、 これに解答を与えることなど、 とてもできることではないのである。
 外側より傍観者として、 自然現象として人間を見ていたけれども、 当の本人になり実在としての人間を見た時、今までわかっていたはずの人間が、 本当は、 あまりわかっていなかったのだということに気づく。外側からお客さんとして、 ただ眺めているという事は、 現象だけを追っている事になり、現象とは、 単に、 それだけを捕らえるならば、 セミのぬけがらみたいなものだといえる。この抜けがらをつかまえて、 真理を探求しても、 無意味な事は、 明らかである。
よくある質問
 仏教でも、よく宇宙という言葉がでてきます、曼陀羅が宇宙を表しているとか。でもこの場合の宇宙とは、天体の宇宙とは違うんでしょう?一体、宇宙とはなんですか?
答え
 科学と佛教の考える宇宙は、そこから人の生き方まで学べる神自身か、神の身体のように考えている。しかし科学でいう宇宙は、科学が事を常に客観化して考えるので、自己を第三者として、その宇宙の中に居ないものとしてとらえる。だから、事の客観的な真相を正確に把握できよう。
 が、しかし、もはやその宇宙のなかには、自己は居ない。自己は居ないがゆえに、自己の生きる意味や生き方は問えない。
 しかし佛教の考える宇宙は自己をその真中に置き、主観的にとらえるようだ。だから、自己と宇宙は一体と感じられる。しかし、一体だから、あるいは神自身だから、現状をただ宿命として受け止めるアキラメでしかなくなる。
 しかし元来のキリスト教では、宇宙は人と神の住む家、生活の場とだけ考える。自分の住む家に「おれは、何のために生きているのだ教えてくれ」と頼む事が、愚かの様に、自然や宇宙に生きる意味や生き方を問う事はない。




もどる