D 愛(関係)で決まる。



 いつまでも 有ると思うな、親と金、というのがある。この逆にいつまでも 無いと思うな、災と難、というのもある。
 親も金も有りがたいが、いつまでもあるわけではない。やがて無くなる時が必ずくる(それへの備えが無ければ, 災と難となろう)。子(人)は親(金)が亡(無)くなってはじめて親(金)の有り難さがわかる。親(金)とのかかわりで自分が生かされているのだと悟る。
 ところが親に捨てられることも、 裏切られることも、 失うこともなく何時までも甘えて、いつまでも依存しておれるなら、親の愛も親の恩恵にも気付かない。 当たり前、有って当然、 してもらって当然、というのは怖い。空気も水もたっぷりあって、 身の安全もいつも保障されているような日本では、それらの値打ちが皆目わからない。
 すなわち一度も無関係になったことがないとしたら、 「無関係になれば、 無になる」という当たり前の事がわからない。 無関係になっても依然として「まだ有る、助けてくれる」ぐらいに考えているのである。
 しかし一度でも、 親に捨てられる、 あるいは自分から進んで親から離れ、 援助も何も受けないという状態、すなわち無関係になった時、 はじめて「無関係とは無 」なのだと気付く。 日本人が親のように信頼する「自然とか世間様全体」が絶えず激変する諸外国の世界では、 そこに住む人間自身が生活を守るため、あるいは自分たちの理想( 宗教や思想=それは神のかたち)を守るために、それら変化する自然とか社会に対応して、こちらの側も素早く変わらざるを得ない。人はそれらとのかかわり方、 即ち関係の仕方を意識せざるな得ない。
 自然とか社会とかいう場が信頼できないほど変わる世界では、 特に関係があって初めて有り、関係がなければ無くなる、 また関係する相手によって、 自分も別のものにされてしまうという意識を強く持つ。


関係があって始めて生きる


 子供の頃、 野球をしていて、 友人がホームランなるものを打った。 ところがボールが飛びすぎて、草むらに消えてしまった。 みんなで手分けして探したのだが見つからない。 そこで皆口々に言う「ボールが無い」と。 私は大声でどなった、 「アホか、 さっきまであったのに、 無くなるか、 有るのに決まっとる。ただその場所が見つからんだけじゃ! 」
 確かに、 今まで有ったものが急に無くなるはずがない。 ただ無関係になったのである。無関係ではむろん野球をするという目的に合わせられない、 即ち役に立たない。たしかにそのボールは有るには違いないが、 草のなかに「人知れず有る」のだったら意味をなさない。
 ところが多くの人( 常識的な発想 )は、 ただ有るだけで、 なんの関係が無くてもただ「有ること」が、それだけで価値や意味を持つと思いがちである。 そうなると、 関係とか、 愛とか、特に人格的な交わりというものが問題にされなくなる。
 だが万物は関係により生まれ、関係(言いかえれば愛)により存在するのである。したがって、 かかわりによって何でも有るのであって、 かかわり無しには何ものも存在しない、有っても無いに等しい。無関係は有を無にするから、 生きているものすら死んでしまう。
 人はもちろん、 生き物は一人( 一匹 )では生きられない。 一人で生きてはいけない。悪とは一人で生きようとすることであり、 善とはみんなで生きようとする事といってもよい。 ( このみんなで生きる道を開かれたのがイエスであり、 それは彼の十字架の愛に表れている。かかわってこそものは有り、 生きられる。 その正しいかかわりが愛である )。
 この「関係による」とは、 もっと重要な問題を含んでいる。関係の相手との、その関係の有り様で、こちらの性質も、その意味も全く変わり、 別ものになるという点である。


神の言葉もそれだけでは生きない


 ところがこれがクリスチャンといわれる人々にも、 聖書学者という人たちにもわからない。聖書は、 誰も読まなくても、 その言葉を誰も伝えなくても、 草の中のボールのようで有ったとしても、それはそれで存在意義があると思っているのである。 なにしろそれは畏れ多くも神の言葉なのだから、と。それだから当然、聖書の言葉をそのまま一言ー句誤りなく語る事、それのみが福音 のように考えるということになる。
 人も物事も関係によって有るということは、 関係する対象によって、その本体の表れも全く変わるということである。 またもし変わらないとしたら、それは生きたものにならないのである。
 信仰深いと思っている人たちの多くは、 イエス(神のことばといわれた)でも釈迦でも、彼の言葉の一言一句をイエスや釈迦が語ったそのまま、まるでテープレコードに録音したかのように、聖書や仏典として書き記されていると思っている( そう思い信じるものだけが、信心深い人で、そうでない輩は不信仰と考えている )。 だが事実はそうでない。いまこれを聖書だけに限定していえば、著者と言われるマルコ、ヨハネ、 ルカ、 マタイたちは、イエスと出会い、キリストと信じたその彼の目で見たままのイエスを、即ち自分たちの信仰の証としてイエス伝を書いたのである。
 だからそれは事実とは違う、 即ち、彼の弟子たちの解釈なのであって、決して歴史的事実の記録ではない という者がいる。 それで本当の姿はどうだったのか、歴史にとらえたら一体どうなるかという試み(史的イエスの探求 )が懸命になされる。そしてその挙句の果てにそれは不可能と分かったというものがいる(例えば、赤岩栄ら多くの聖書学者の結論)。
 (こういうはじめから分かりきった結論<*下記の事実の真実性を参考にせよ>に、至り、愕然として信仰も何もかも捨ててしまうというのも愚かである。 が、他方、そうならない前に、予防線を張り、聖書にある矛盾を一切認めないという福音派の偽善には、到底賛成出来ない )
 だが、 それはその著者にとっては否定し難い事実なのである。 というのは、そこに生きて出会う個々の人間を除いてイエスをとらえることはできないからである。即ちどんな事実も、人の目に触れる限り、その人たちの解釈なのであって、決して歴史的事実の記録そのものではない。どんな事も、見聞きする人間を除いては何も語れないからである。
 そのうえ、人間といっても,人間一般が見聞きするのではない、生きている一人の人間がするのである。その一人の人とは、まず生きていかねばならない自分である。
 生きているという事は、 他人ではなく、 この自分である。 自分であるかぎり主観的であり、間違いや偏見に満ちている。 けれどもそれは自分と会ってくれた, ただ一人の神の子である。だからこそ自分だけのものである。 それは自分がこの世で一ただひとりのように、その救い主イエスもただ一人でかけがいのない存在なのである。 この神の子との出会いこそ、信仰に他ならない。
 ここには、 先の地動説か天動説かの問題と同じ問題がある。 もしイエスの言動をビデオで撮っておくことができたら、それは地動説的にイエスを正確にとらえたことになろう。 が 、それはしょせん血も涙もでない機械のとらえたイエス・キリストでしかない。だからいずれそれも血の通っている人間が見ないと草むらのボールと同じになる。
 イエスに出会った人たちは、 血の通っている一人一人の人間であった。 このことは限りなく重要である。人間一般がイエスを見たわけでも、 彼の話を聞いたわけでもない。
彼らは徹底的に自己中心で、 天動説的に生きている。 彼らは決して科学者のように客観的で第三者の傍観者であったのではない。もしそうだとしたら、誰もイエスを信じはしない。先に述べた様に、人は傍観者であるかぎり,信じることは不可能だからである。


神の子を映す人間受像機


  ある物の重さは七グラムといっても、 それはそれを計る事ができてはじめて七グラムといえるのである。計りなしには、 あるいはそれにかかわるものなしには、 重さは無いに等しい。 無限小であると共に無限大でもある。それと同じく、何事も物差しがあり、比較するものがあってはじめて、捉える事が出来るのである。普通、人がする事、言う事のはじめは事物の判断である。その際、必ず物差しやハカリを使うが、そのゼロの起点は自分であり、測る道具も自分、判断も自分である。
 今、ハカリの仕組みを言うと、重さを量るに最も正確なのは上皿バカリであるが。右に薬を載せたとすれば、左に7グラムの分銅をのせた所でつりあうと、薬の分量は7グラムと判断されるということである。これが、すべて事物を評価し判断するということの基本的原理で、どんなに複雑な事も単純な事もこの仕組みから一歩も出れないのである。 だから問題はその分銅の真偽で、またそれをどこから手に入れたのかという事なのである。
 聖書の言葉は、 聖書の言葉そのままで生きるのではなく、 それを読み、 聞き、それに触れる者と共にあってはじめて生き意味を持つ。テレビは電波を出す放送局だけで見れるのではなく、 受けるテレビジョンが必要であるのと同じである。
 それにテレピ受像機なら、 規格は一様で同じ映像を結ぶ。 だが神の電波を受ける受像機である人間は、極めて多様である。 それもあれが優秀で、 これは劣るというような単純なことではない。みな神の創造にかない、 お互いに比較出来ない個性的なものである。
 だから人間の数だけ、 キリスト像があることになる。 するとそんなに色々あるのは誤りだという者が出てくるが、そうではない。 それであって初めてその人も、 内なる神の子も生きているのである。
 しかしもちろん、 その人間受像機に映るキリスト像は、 その人間と極めて似たものになる。 というのは自分の身体や心を物差しに対象を計り、自分の何倍か、あるいは何分の一かを計るだけなのである。だからそれは相手を計っていると言うより自分を計っているのである。イエスは言う、「あなたが量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう(マタイ福音書2章7節)」と。
<だからわたしたちが神の喜ばれる理想の人間になろうと努めねばならない。 そのためには自己の内なる神の子であるキリスト像を、その理想のものに近づけるように心のイメージを描かないといけない。 信じるものに私達は成るからである。
 創世記一章二七節には「神は自分のかたちに人を創造された 」とあるように、わたしたちは神に似るようにつくられた。 また「キリストは神のかたちであられたがーー」とあることから、 キリストは一方では神がどのような御方であるかを人に表され、他方では人の理想とは、 何であるかを行動で示される。 だからベテロは言う、
  キリストも、 あなたがたのために苦しみを受け、 御足の跡を踏み従うようにと、模範 を残されたのである。  ( ぺテロ第一の手紙二章二一節 )>


事実の真実性


 見るとは、自分の外にある自分を探すことでしかない。即ち自分からは一歩も出れない。猫は猫的に見、豚は豚的に見、ゴキブリはゴキブリ的に世界を見ているにちがいない。
  このようにして、自己との比較にすぎない事実をようやく把握しても、それは一つの事実であっても、真の事実ではない。
 今述べたように、 対象を観察する時、 科学の方法は、 自分を第三者におく。 即ちその対象と無関係の位置に自分を置くよってそれを把握せんとする。だから、意識は離れても事物は存在するという思想を生み出し、 これよりさらに、 事物はお互いに関連なくしても存在するという哲学にまで進展する。
 意識から離れても事物は、 もちろん存在する。 だが、 この事物は、 決して人の認知することのできない事物であることを知らねばならない。だからして、 逆に、 科学で扱っている問題は、 すべて人の意識との係わりのうちにある事を認識すべきである。
 ここで再度注意したいことは、 関係するものが別のものになれば、 同一の対象もまったく変化する。即ち、 関係するものが、 その対象を規定するという事にある。 したがって、もし、 人間との係わりが全くないものがあるとしても、 それは、 ただばく然とあるにすぎない存在である。こう考えていくと、 事物が他の何物とも関係を持たないなら、 それは、 有るとも、無いともいえない状態にあるが、 現実的に言えば、 他と無関係にあるものは、 無いに等しいと知るべきである。すべてのものは、 何かと関係を持つことによって初めて有り、 何と関係を持つかによって、初めてその事物の性格は規定されるのであって、 最初から他と無関係に事物は有るのではなく、また、 はじめからその性格も規定されているのではないのである。
 科学の方法は、 実験や観察を通して、 対象の客観的把握を常に目的とし、 これを捕え、選択している。これは、 対象を人間的理解のうちに制限づける行為であって、 対象の何ら関知しないことである。対象は決して、 人間の限界の中に入れられるほど制限づけられていないことは、明らかである。
 したがって、 対象の客観的に把握された事実といっても、 人間が扱う事実であるから、この事実には、 すでに目的が含まれ、 価値がその場を占めていることは、 その事実が、なぜ取り上げられなければならなかったのか、 また、 なぜそのような角度より取り上げられたのであるかを考えればわかることである。このように、 客観的事実といっても、 決して客観的ではなく、 人間の主観が主役を演じて、事実を主観的に取り出しているにすぎないのである。
 この科学の方法は、 対象把握のため、 m やg 等の約束事でしがない尺度や、 反対するものがないから正しいと思えるにすぎぬ仮定をもうけ、これを規準にして事実を規定することを始める。
 ここに次のような問題がさらに生まれる。
一、 今述べたように人間は、 人間の基準に、 即ち人間の型に自然を変形することによってのみ、自然をとらえることができるのだから、 人間には、 自然の実相というものは、 わからない。
二、何かを基準にしなければ客観的に事実をつかむ事ができない。 そこで、 この基準になるものを探し、これに絶対性の権威を与える。 そこで、 この基準を絶対視し、 対象を絶対視しないことになる。その結果、対象の唯一性即ち個性を無視し、 なんでも画一的に評価を下すようになってくる。
三、 事実真相の把握ということには、 「規定する 」とか 「制限づける 」作用を持っている。そこで固定できぬものを固定し、 制限できぬものを無理に制限し、 結局、 対象の本質の意味を狂わせるものもある。これに典型的なのが人間への評価であって、 人の運命や、 人の知性とか性格などに、人が何らかの評価、 判断を下す( 心理学者や占い師等がこれをやる )とこれを信じ、人はその制限の中にとじ込められ、 未来にはばたく可能性に生きるなどという意欲もなくしてしまうことになる。


聖霊の介在


 聖書の言葉は、 聖書とそれを読む人とだけで意味を持つようになるのではない。生活の実感としてとらえられても、 それだけでは「なるほど 」と思えても、 それ以上にはすすまない。
 それらに神の息が吹き込まれる時、 神の言葉は真に生きるのである。 というのは、人間はいくら理性的でも、その内に働く霊によって、 心はどうにでも左右されるからである。人に感動を与えたり、無感動にさせたりするのは人を支配している霊の働きによる。
 だから使徒パウロは「霊によって霊のことを解釈するのである( 第一コリント人への手紙二章一三節 ) 」といっている。
 いくら聖書を読んでも、 いくら知識教養があっても、 どんな学識があっても、それを書かせた神の霊が働いて下さらないと本当のことは理解できないのである。このように神の言葉「聖書」も、 生きている人と神の聖なる霊の働きが不可欠なののある。
 同じ言葉を聞いても全く違うようにとれる。 イエスは自分の教えを喩え話で説いた。それは、 その人の信仰に応じて理解できるようにとの配慮からである。 だからイエスは言われる「おおよそ、持っている人は与えられて、 いよいよ豊かになるが、持っていない人は、 持っているものまでも取り上げられるであろう( マタイ福音書ニニ章一二節 ) 」と。
 信仰のあるものは信仰を働かせて信仰的にとらえ、 いよいよ信仰深くなる。 だが、信仰のないものは疑いをもって否定的に物事をみるので、 悪い点しか気付かない。だから余計わるく考えてしまい、 いよいよ不信をいだくようになる。
  そのとき、 人々が悪霊につかれた口がきけない盲人を連れてきたので、 イエスは彼を いやして、 物が言え、 また目が見えるようにされた。 すみと群衆はみな驚いて言った、「この人が、 あるいはダビデの子ではあるまいか」。 しかし、 パリサイ人たちは、これを聞いて言った、 「この人が悪霊を追いだしているのは、 まったく悪霊のかしらべルゼブルによるのだ」。   ( マタイ福音書一二章ニニ節よリニ四節 )
 イエスの奇跡にしても、 まったく同じ奇跡を見ても、 このようにそれを信じて、よりイエスを信じる者と、より疑う者とに分かれていく。
 このようにそこに働く霊によって全く違う解釈が生まれる。 イエスはこれについて次のようにいわれる、「あなたがたには、 天国の奥義を知ることが許されているが、 彼らには許されていない( マタイ福音書ニニ章二節 ) 」と。
 現にわたしの場合、 同じ聖書の言葉を読んでも、 自分の鏡に映る顔が毎日違って見えるように、日によって全く違うようにとれることが多い。 それは自分の信仰が日によって違うからであろうと理解している。




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