F 科学の論理と、宗教と科学の闘争


科学の論理


 科学の使命 は、第三者として事物を明確に捉えることにある。事実の正確な把握である。それために、まず優先されるのが、他との区別である。そこに「AはAであり、Bではない」。「 AはAであり、 同時に、 AはAでないとはいえない」。 ・・・・等という普通の当然の考えで一貫している。難しくいえば論理学上の根拠より出発する。
(しかし、 現実の存在は後に説明する様に、そうではなく、 AはAであってかつ同時にAなのではなく、BでもCでもある。)
 このAはAであるというのは、 人間の側の思考の展開と構造より来る約束ごとなのである。したがって仮定であって、 それは現象面だけを第三者的にとらえていこうとする科学として、当然の態度なのである( したがって、 科学は事実だけを相手とする学問である )。
 科学は、 特定の現象をとらえて、 A( 水の分子 )はA( 水の分子 )であると規定する。しかし、 このAなる規定自体が仮定の規定であることを、 次にA( 水の分子 )はB( 水素2分子と酸素1分子より成るもの )であると説明することによって白状する。
 「私は私である」と同時に「私は私ではない」。 それは前者、 即ち、 「私は私である」の方が結果や事実を説明するに対し、 後者、 即ち 「私は私でない 」の方は、 自己の存立の根拠や原因や実相(真理)を説明している。
 神は一人で生きていける。しかし、神で無いものは、一人(単独)では生きていけない(存在できない)。互いに支え合ってはじめて生きていける(存在できる)からである。
難しくいえば、神以外のもの(自分一人だけでは存在できないもの )は、 結果と原因を自己という同一のものの中に持つことはできない。即ち、 自分自身のうちに自分の存在の根拠( 原因 )を持つことはできない(他者に依存する)。したがって、 神以外のものは、 完全に矛盾した存在(AであってAでない)なのである。多くの人々は、矛盾していることを誤りの代表のように言うが、 矛盾こそ実在の真相なのである。
 このように、 現象や結果の層ではなく、 存在原因の層を見る時、 すべてのものは、自分以外のもの( 対立するものとは限らない )によって支えられ、 助けられており、そして生きている、と分かる。
 このように考えてくると、 科学的論理の方法では、 事実の集まりである現象界を論じても、その事が存在している原因や本質を問う実存(真理)の世界の問題については、何も通用しないことを知るベきである。
 以上、科学を絶対視して、 その能力の限界を超えたところまで、 あるいは畑違いの場所に顔を出すような行為はさけるべきである。
  現代においては、 科学的であるということは、常識的であるということと大差はなく、多くの人々は、 この言葉にまどわされている。 この哲学は、 科学的であるとか、この宗教は科学的である( 少しも科学的ではないのに )とかいうことによって、その宗教や哲学に価値があるもののように思うことは大変誤っている。
 なぜなら、 そう言うことによって、 その宗教や哲学を最高の真理としているようで、よく考えてみると「科学的 」と言うことによって科学の方が、 その宗教や哲学より価値ある真理を持っているのだ、と白状していることになるからである。 また、 現代正しいと思われている科学上の法則や事実もやがて新しい発見等によって、誤りであったという判定が下され、 消えさる運命にあることは明らかである。 したがって、この消えさる運命にあるものに一致している宗教や哲学は、 それらが消える時、一致して消えさるのである。


理性偏重


 人間には、 知・情・意の三つがそれぞれあり、 理性的にしなければならない時は、感情を考えてはいけない。 逆に感情を尊ぶ時に、 理性的になるのは、 情緒やムードをぶちこわすことになるのでよくない。また、 強力な意志を必要とする場合に、 やたら理性的になっり、 批判ばかりしていては、少しも前進しない。 要するに、 知情意の三つを、 適切に用いなければならない。
 ところが、 科学そのものは、 極めて理性的である。 そこで科学だけが異常な発展をとげると、人間は、 理性的になる代わりに、 つまリドライになる代わりに、 人間の感情や意志が抑圧されるという結果になる。これは、 人間が欲望( 感情と意志が一緒になったもの )のはけ口を失っていることであり、現代人が欲求不満に悩まされているというのは、 このところからもきている。
 科学は、 人が作ったものだけれども、 人そのものは、 科学的にはなれない。 自分が、第三者的立場即ち傍観者としておれる限りでは、 万事万端科学的でありうる。 けれども、すべて自分自身のことになると、いくら冷静無比な科学者でも、 人間の理性には、必ず感情や意志がつきまとうので、自分自身に対しては、冷静で客観的科学的ではありえない。
 また、 人間はいくら第三者的に満足しても、 それで直接幸福になるとはがぎらない。人間は、 主体的な感情が平安でないと必ず不幸になる。 賢い人がさびしい生涯を終えた例もあり、人々から畏敬に近いまで尊敬はされるが、誰がらも親しまれないし、 誰からも愛されない不幸な人もいる。
 このように科学は、 人を客観的立場においやることによって、 事実を探求し、人々を理性的、合理的にさせることによっ、 まちがいのない推理や計算を通し、 科学的理論や仮説を立てる。だから、 このような方法、 態度で追求された人生観も世界観もまた理性偏重となり、これらの思想により指導された人間もまた、 人格の円満を欠く者となるのは必定であろう。


科学と宗教の闘い


 多くの人は、「科学と宗教の関係は、まるで敵同志であると思い、近代の歴史は科学が、宗教(とくに西欧ではキリスト教)の迷信とそれから来る頑迷な抵抗に打ち勝ち、一つ一つ勝利した(ということは、宗教は敗北して後退してきた)事で発展してきた」と考えている。
 ところが、コペルニクスもケプラーもガリレオもニュートンも熱心に神学や聖書の分野で発言し、キリスト信仰の正統性擁護のため全力を傾倒したのである。
 というのは、自然宇宙は「はじめに神は天と地とを創造された」の聖書のはじめの言葉のように、神様の作品であると当時(一部ではあるが、今日でも)の西欧キリスト教世界の人々は信じていたからである。聖書はもちろん神の書いた書物であるが、この聖書と同じように、自然にも神のメッセージが書かれている。自然の探求は即ち神を探求して神に出会う第二の道であると、彼らは信じて疑わなかったのである。
 そんなことで、今クイズを一つ出そう。以下の正解にマルを付けよ。
 コペルニクスは地動説を提案したが、そのため彼は、当時の教会から、どうされたか?
 1、褒められた。
 2、弾圧された。
 3、投獄された。
 4、死刑にされた。
 「正解」はなんと1である。
 大抵、1以外を考える。それは誤りである。なにしろ、コペルニクスはカトリックの司祭即ち教会の坊さんである。その親玉の当時のローマ教皇は興味を示し、その説は素晴らしいので早く出版するよう勧め、それを期待したのだ。これを聖書(ヨシュア記10章12節以下「日はとどまり、日は動きをやめた」)に反すると罵倒したのは、プロテスタントのルターであり、カトリックの側ではなかった。
 ではガリレオはどうか。
 ガリレオ裁判とは、天文対話(1632年出版)が、教皇庁の異端審問所に告発され、審理の結果、断罪されたことをいう。しかし、そもそも事のおこりは、新旧(プロテスタントとカトリック)教会の対立に端を発したものであり、科学的真理と宗教的原理の対立というのではなかったらしい。
 自然は神の創造されたものだから、神の定められた秩序に冷厳なまでも忠実に従う。そこに多様な解釈の入る余地はない。即ち自然に書かれている言葉の解釈には紛れはない。他方聖書の言葉は多様な解釈を許す、比喩や修辞があるのでなおさらだ。しかし、その聖書と自然の両方は、いわば同じ神の書いた書物(自然は、数学と言う言葉で書いた神の書物である、とガリレオはいう)である。だから双方に食い違いはない。もし有るとすれば、聖書の解釈(この時代の聖書解釈、神学とはギリシャ哲学であり、聖書とは別物)が悪いからだ。
 聖書の解釈には誤りがあるかもしれないが、自然の探求は数学的に出来るので、こちらの方が正確だと思う学者も出来たほどである。なにしろ自然は神の創造された作品なのだから、神の定められた秩序に冷厳なまでにも従う。そこには多様な解釈など入る余地はない。しかし、聖書はそうでなく、多様な解釈が入り、正確さに欠ける。ーーー云々。
 こんな風に当時の多くの知識人は、信仰の対象として自然を見ていたのである。だから、彼らにとり、自然をしらべるのは、聖書を調べるに等しいと考え、両者 (科学的真理と宗教的原理)の調和を正解と考えていた。だから、これらが対立するものだとは全く考えていなかったのである。
 こういう伝統を牽く西欧キリスト教世界では、現代の西欧の信徒や学者でも、中世や近世の人々と同様に考えるものが多く、科学と聖書は一致すると堅く信じて疑わない者が多い。それだから、こう信じないものは不信仰のとんでもない輩と見なされている。
 しかし、この書(ホームページ)で何度も触れた様に、目指すものが違うのだから、合うはずがないのである。それでも「両者は合う」と言うものは、事の真相に目をつむる偽善者と言わざるを得ない。また目的と手段を混同する事だから、独裁者や国家主義者のような人物に利用されるがオチなのである。
 尚、「創造論が正しいか、進化論が正しいか」の論争は、他に専門家が詳しく解説してホームページに載せているのでそれを御覧あれ。
 だた私は、キリスト教の擁護者なのだから、当然、創造論に賛同する。しかし、だからと言って進化論がまるで誤りとは思えない。というのは、自然の進化を説く者の説明の順序の様に、恐らく神がこの自然を創造されたのではないかと思うからである。




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