G 終りに、創世記1章より3章まで


神のかたち(向上進歩)を求めて


 ネコはネコ的に世界を見、人生(ネコ生)を体験し、ネコなりの結論を出し、ネコ的に悟っているのである。しかもそれは誤った判断を下しているのではない。それはネコにとり正しい判断のはずだからである。これはネズミであってもゴキブリであっても同じであろう。路傍の石であれ、雑草であれ同じであろう。ネコにとり正しい観方や生き方があるとすれば、それがそのままネズミにとっても、”正しいそれ”と言えるだろうか?それは正しくないに決まっている。
 これがそのまま聖人君主の考え抜いた”これぞ真理”という世界観や人生観にもいえよう。
 しかし人間には向上、進歩というものがある。施しをうける人から施せる人に変わらねばならない。人に嫌われる人から好かれる人に変わらねばならない。では、どういう人に人は変わるべきか、−その理想の人とは何かを教え、その理想に至る道を教え、それに至らせるのが、宗教である。(ただし、現実には、それが必ずしも進歩向上ではなく退歩退行の場合が多いので問題だが)


サルと人間の違い


 サルは食い物(パン)さえあれば生きていく。しかし、人はイエスの言うよう(マタイ福音書4章4節)に、パン即ち食物だけで生きていけるのではない。宗教を持つのは、人だけであろう。人は希望、願いを持たないでは生きていけない。 してみると宗教とは、この人の願いや希望であろう。
 人はその「自分は、かくありたい」という理想を,具体的かたちや像にしたいと思う、それが、ご利益宗教の神のかたちだ。その自分の願う人のようになるーーその到達目標が神だ。となれば神とは,人の願いそのものだ。人はそれを描き、造りそれを崇め、それにあやかろうとする。それは、すでに自分の願いを達成した偉人でもよい、架空の憧れ的存在の人でもよい(例えばアイドルスターとは中国語では”偶像星”と書く)。とにかく人の願いを体現するもの、してくれそうな人(生き物)が神だ。それでその願いの達成を、超自然的な何ものかに依存して実現しょうとする時、宗教になる。
 古代において人間がまず最初に、その生活手段と考えたものは土器であろう。その土器製造で想像されるように神は宇宙自然を創造されたという。
 土器でも何でもワザワザ造るかぎり、そこに造る目的がある。器を造るには、物を入れるという目的がある。(その目的や動機は造る側にあり 、造られた方にはない)。その目的に合うようにその(入れる事の手段として)器を造る。そしてそれが用を足し、 役立つという場合に「それには価値がある 」といわれ、造られた事の「意味がある 」ということになる。
 逆に出来そこないで、容器としての目的を果たせないなら、価値なしと思われ、した事に意味がないとなり、役立たずとポイと捨てられてしまう。すると、ポカリと割れ最後はコナゴナに砕かれてしまう。、
 かように造り手は、造ったものに対して絶対的で、生きるも死ぬも拾うも捨てるも、意のままという生殺与奪の権を、持つ。その意味で宇宙自然は「はじめに神は天と地とを創造された(創世記1章1節)」言葉のように、神の手になる土の作品と言え
 ということは、世界は神の目的の下に創られ、存立している。 だからもしその創り手の意に反する無価値のものであるなら、速やかに捨てられ破壊されても文句は言い様がない。そういう意味で世界即ち宇宙自然は神の身体でも、その一部でもない、もちろん神自身などでは到底あり得ない。 だから自然が神の作品であるから、そこに人への伝言があるという説には、作品の点で賛同できる。しかし、自然は神自身の言葉ではないので、それからは神の思いや姿はつかめない。壷のような土の塊から、それを造った人間という高度な存在を想像できない様にである。


大人のおもちゃ


 昔も今も、造るという時、容器のような生活の道具や手段として造るものの他に、観賞用、慰め用というのがある。子供はおもちゃを喜び、大人も喜ぶ似たようなものがある。偶像を造り拝む偶像崇拝がそれである。
 人が神を想像し創造する、その場合当然、成りたい自分の理想の姿を造り、描き、ありがたい神像と崇めるに違いない。そういう人の行為の皮肉るように、神は人を神の姿にかたどり創られる。
  神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めさせよう」神は自分のかたちに人を創造された。  創世記1章26、27節。
 ここに「神は自分のかたちに人を創造されたーーー」とある。しかし人の世の現実には、この反対に、神を自分のかたちに人が創造する。有りもしない神を空想し、それを画や像にし、それを拝む。しかしそれはよく見ると神というほどの崇高な存在ではなく、なんと自分が成りたい理想の自分の姿に他ならない。悪く言うと欲の体現でしかない。その像は空想上は有っても実際はない、だからこれを偶像とよぶ。以下の2章7節の「神は土のちりで人を造り」の逆が偶像崇拝で、古今東西「人が神を造る」という現実であふれていた。人の「有るべき人」の姿(神の姿すなわち像)を神でない人(昔は王が、今は各自が勝手に)が、決めてきたのである。
 神が人を創ったのに、人が神を造る。これではマルで逆である。こういうさかさの事をしても、この様に、人が神のかたちを空想する時、宗教が生まれる。即ち、人は神のかたちであるが、同時に神のかたちは人のかたちで、人の夢、願い、理想である。このような成りたい自分の理想の姿を考える時、そこに宗教が生まれる。
 ではその人の身体とはそもそも何か?命とはなにか。霊魂とは何か。それは以下の旧約聖書に答えがある。
  主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。..  創世記二章7節。
 (ここに比喩がある。陶器師は創造主の神、陶器はその陶器師の造った作品。材料は土のちり、即ち自然から採れた物である)。
 人の生命の実体とは、神の息すなわち神の霊であり、身体は単にその入れ物、容器、土のちりで出来た土の器でしかない。(あるいは霊に着せる服。霊の住処でしかない。)
カラダはカラだ
 だから土のちりである身体が、生命そのものや生命の部分なのでもない。また、身体の延長に生命があるというのでもない。両者は場を共有するが、別物なのである。それだから、人のカラダをいくら調べても,生命とは何か、まるで分らない。
 身体はからだという様にカラだ。中身がカラなのだから中に霊(命の実体)を入れる事が出来る。カラの空洞だから中になんでも入れる事ができる。だから当然、容器から中身を推測できない。財布から中にあるお金の金額は測れない。家から住んでる人がどういう人かは知れない。それなのに身体を調べることで人間を知ろうという試みが絶えない。<ちょうどそれと同じ様に、事実の集積(地のチリ)が物の命(真理、目的、意味、価値)を生むのではない。>
この様に、入れ物と中身は別物である。だから、整理すると、
1に、入れ物からは中身は判断できない。入れ物をいくら調べても中身は分らない。
2に、入れ物が変わり成長しても、中身が成長するとは限らない。
3に、大事なのは中身で、入れ物ではない。
 ものを造るには、造る目的があり、目的に合う材料を手に入れ、目的に合うカタチに造りあげる。地のチリである粘土の塊が、自動的に陶器のカタチになるのではない。陶器師が、目的に応じてそれに合う型を決めるのである。思いの通りに出来なければ無価値,無意味と放り捨てる。陶器造りは、土という材料を手段にして、キュウスならキュウスという茶を煎じる目的の陶器をカタチ造る。椅子を作る家具職人は木という材料を手段にして、人が座る目的のカタチの椅子を作る。その場合、どういう型の陶器に成るか、材料で手段である土が決めるのではない。またどういうカタチの椅子になるかは、材料で手段の木が決めるはずもない。
 また私(自分)の身体が、私なのではない。すなわちA氏と言えば、A氏の姿や身体を連想するが、A氏そのものではない。(ふつう、「自分の身体こそ自分のもの」と思いがちだが、決して自分ものではない。いや自分の生命ですら自分のものでない。自分のものといえるものなど自分の心以外に、そもそもなにもない。)
 いずれにしろ自己の生命は、神からの借り物でしかない。自分の所有物ではない。当然、自分の身体はその借り物の容器でしかない。人が死ねば、身体という居場所を失うため、その霊魂はそれを授けた神の元に帰る。他方霊魂という中身を失った容器は朽ち果て、もとのチリに帰る。
   ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。  伝道の書12章7節
 だから、死者の身体は、霊魂の抜けがらである。殻はカラでカラだ。身体という読みの通り、中は空洞の「からだ」。ただの空しい土の器でしかない。
 この創世記二章7節には、人と神と,自然と生命の関係がすべて言い尽くされている。人の構成部分の違いに応じて、それぞれを養うことが必要で、チリで出来た身体はチリを食べて成長した地の産物を食べて生き成長できる。命はそれを与えた神の息を絶えずもらう事で生き育つ。神の姿に変えるのは神の言葉による。
1、人は,神に似るように
2、地を自然を神に代わり支配する様に,
 との目的で造られた。
 人の身体は土の器で、
A,、その素材は地のちりで、
B、その出来たカタチは神に似た姿、
C、命は神の息、
 即ち素材を、どういうカタチにするかは、造り手の決める事である。陶器を造るにまず陶器師が、地のチリを集め,水で練り、入れ,用いる目的に合うカタチに容器を造り上げる。チリが勝手に集まり、集まりの思いの通りに集まり自身が、カタチを決め、存在目的を決めたはずもない。
 ところが、事実の積み重ねが、真理(命)を生むと考える。そうだと時の流れるままに流れて行くのが最善の生き方と思う様になる。
 そしてチリは地のチリから食物を得てその肉体を維持し成長するように、霊はその与え手から糧を得てまた成長する。またそのカタチは神あるいは神の子の姿に似る様にであるから、そのための言葉を必要としている。それだから、「人はパンだけで生きているのではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とイエスが言うのである。 科学は生物としてのヒトやそのヒトの身体を扱う。しかし生まれながらの人は人間ではない。人は社会的動物であるから、身体だけでなく、心も成長して人の間に棲める人間にならなければならない。そうい人間を人間として問題にしない限り、人間の問題を解決できない。
 このパン即ち衣食住を得て生物としての人になる手段こそ、科学の役目で、更にその生きる事の意味を得て人間になる手段が、神のことばを得る事で、これが宗教の仕事であろう。
人形と人間の違い
 可愛らしい幼女が、 可愛らしい人形とともに、 眠っている。 その美しい髪、 そのふくよかなほお、そのつぼみのようなくちびる、 いずれをそれ( 幼女と人形 )と分け難い。 しかし、そこに非常に相違のあることを、 だれしも疑わない。 つまり、 一には命あり、 一には命がないのである。
 こういう命の有無の基本的違いとは何であろうか?(それには目的の有無、成長の有無、類似の有無、愛の有無などがまず考えられる)
 前者は人の産んだ者、後者は人の造った物、前者jは神の創ったもの(科学では進化論を言うので、自然の産んだもの)、後者は人の造ったもの、ーーーとなろう。
 子は愛の対象,後者は打算の対象、子は、目的無しに生まれた者、後者は目的の元に造られた物。前者は身内で自分の分身であるが、後者は他人で、取引,損得の対象。ということは、人形は汚くなり壊れでもして、あるいは遊びあきたらゴミに捨てればよい。しかし、赤子はそうするわけにはいかないということである。
 この身内の事を扱うのが、宗教。他人で,打算の対象になるのが,科学といえよう。
 今、赤子と人形、前者は人の産んだ者、後者は人の造った物と述べたが、では宇宙自然やその中に住む人はどうか。それも神の産んだ者とみるか、神の造った物と見るか、あるいは神の身体、神本体と見るかで大違いになるのは当然である。
 何しろ、赤子と人形はマルで違うのだから(それだから、どの宗教の同じというのが、如何に乱暴な考えか理解されると思う。キリスト教と佛教の違いを明確にしておかないと、この辺が理解不可能になる。両者の大本は同じという考えもあるが、それならそれでどこまでが、違い同じか明確に把握しないと真理は掴めない)。だから、宇宙,自然をどうみるかでまるで違う世界観、人生観が生まれる。
裸が恥かしいとは
 エデンの園の中央には「命の木」と「善悪を知る木」という奇妙な名のがあった。後者も試食を、ヘビが盛んに彼らに勧める。
  へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとに神が言われたのですか」ーーーーーーーーーーーーーー
 へびは女に言った、「あなたがたは決っして死ぬことはないでしょう。それを食べると神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
 ------その実を食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。  創世記3章1節より7節 
 このふたりは、それまで裸で、それで平気で、ナントも思わない、ところがその実を食べた時から,恥かしいと思うようになる。有るがままの姿が,恥じるべき存在と思うようになる。そこで服を作り、それを着て恥を隠そうし、更に神からも隠れ逃げようとまでする。ここから今に至るまでの人の不幸が始まる。あらゆる人の不幸はここにすべて原型がある。
 神の戒めを無視して、悪魔の声に聞き従う、だから呪われるようになった。ーーーーというのが、普通の説だが、ここでは少し違う観点から、論じてみよう。
 1に、善い行いをする人か悪い行いをする人かで、人を判断する、
 2に、人を人と比べる。
 3に、ただ内にあって何も考えないで生き、事をする人から、外から自分や他人を見て、事や人を見る人になった。即ち当事者から、傍観者になった。
 善悪を知る木の実を食べるとは、まず相手を認め愛し受け入れることから、不信、疑いや怒り、憎みや相手をしりぞける思いが生まれたということなのである。ということは、今目の前にいる、当の人(あるいは世の中)では不満で、自分(今の世)とは違う別の今より良い何かが求められているという事でもある。
 また、互いに相手の「善し悪し」に気付いたということはそれまでとは、別の「人を判断する基準」が出来たという事でもある。その多くは、まず人が共同で生活する仲間やその場からくる、それら共同の生活を存続させるため”オキテを守る人”の要請であろう。守る人は善い人、守らない人は悪い人である。では、その善悪の尺度(基準)はどこからくるか?
 それは大抵その場の支配者、あるいはそこで過半数を占める大勢の考えや行動からきたものである。また、その大多数を占めるそれは、その場に一番昔から居いる主(ヌシ)からくるので、伝統である。多くは伝統こそが善悪の基準となっている。
 また人と人とを比べ比較し合う事で、互いに裁き合うようになった事を意味する。
 それはまた、二人が裸であると気付くということは、お互いが傍観者に成ったということで、第三者的に見る様になったという事でもある。即ちそれはウワバミというようにウワベだけをミ(見)る人になったということである。それですぐ分るのは、確かに神の様に賢く成ったのだが、やはり人は人で、神の目から見た人は、ナント自分の裸の恥じすら隠せない弱いみじめな地のチリに等しい存在でしかないという事なのである。
 さらに第三者であるが故に、事が,すべて自分の事とは思えないので、冷たく批判ばかりする、それが平気で出来る。後に述べる様に律法主義者になる。ところが、そうでない以前の当人であれば、そんな冷たく、冷めて見るわけにいかない。また思いやりのある人や優しい人は、その当人と同じ思いになろうとするので、罪を厳しく断罪する戒律主義者や道徳家(倫理道徳の実践が人を救うと考える)の様にはなれない。
 即ち、ただ見ているだけで、人の事をあれこれ批判する人は、ヘビに騙され善悪を知る木の実を食べさされた人なのである。もはや彼らには楽園に居る資格はない。ここを出て行かざるを得ない。
 また「善悪を知る木の実を食べる」とは、有るべき姿に目覚めた、即ち今有る姿が、別の「有るべき姿」から見て「有るべき姿」でないと感じる様になったと言う事である。それだから、人の生きる意味とか人生の目的など考えて「我が人生は生きるに値しない、不可解」と自殺にまで至るものがいるので、そもそもそういう意味や目的などは、はじめから考えない方が良いというのが、汎神論の考えになる。
 ヘビは大地の精で、農耕民の神で、特定の場を長く支配する主(ぬし)で、常に”長いものに巻かれろ”と言うのが、その口癖のセリフ、モットーである。土地を神とする俗信は、一定の土地にヘばりついてとぐろをまき、 その主のようになっているものの考えで容易に宗教と化する。伝統に従え、 郷に入れば郷に従え、皆と同じようにせよ、である。 地縛霊も蛇の象徴するものであろう。日本の神はこの土地を神とするものが非常に多い。
 因果応報、善行の報いが、幸。悪行の報いが不幸。よく善悪を知りわきまえ、正しく生き、悪を避けよ。ーーーこういうのが古今東西の聖人君主の一致した教えである。例えば釈迦は、八正道の実践による救いを説いた。これは親、教師、上司、先輩、友人の一致した諭しである。 またこれは聖書でいえば、律法による救いを象徴している。しかし、それはただ善悪を知るのみで、罪の自覚に至り(ローマ3章20節5章13節他)、罪に苦しむだけで、今だその許し即ち救いの完了にならない。
 他に考えられるのは、ここにヘビの持ちこんだ別の善悪の基準が生まれたということである。天の神の基準から見れば、「はなはだ良かった(1章31節)」とあるように、それはあるべき真理なのだが、別(地の神ヘビ)の有るべき姿から見るなら、それは有るべき真理の姿でない。


知恵の木の実は何の実?


 アダムとイブのふたりは蛇に誘われて善悪を知る木の実を食った。 それゆえに楽園から追い出された。 それまで幸せだった人間が不幸になったのである。
 ではどうして楽園を追い出されたのか。 祝福されたものがどうして呪われた者になったのか。( これを知ることが救われるに欠かせない。 救いはエデンに帰ることだから、 この追放された原因の逆をすればよいとわかる )。
 地のチリを食らうヘビの目的は、 人間の肉体( それは地のチリでできている )を食うことで人間の全部( 心も霊も )を飲み込まんと企んでいるのである。
 ここでは自分の考えや意志に従って生きるのではなく、 神に従って生きよという課題を提供している。だがそれをせずに悪魔の声にききしたがう。 その結果が、 楽園追放の不幸をしょいこむことになったのである。
 「神への従順を棄てる時、 神との人格的交わりの喜びを失う。 動物的には生きられても人間らしい尊厳をもった生き方はできなくなる。人格的生命はこれでアウトになる。
 ではこの木がなぜ" 善悪を知る木 "と呼ばれたのか。 それは造られたものにすぎない人間がそのメーカーである創造主ヘの従順こそ善( 幸 )であり、 反逆は悪( 不幸 )であると考えられたからであろう 」 ――ーというのが偉い先生がたの説。
 まず神を棄てれば人は完全に死ぬのである。 動物的にも生きられない。 だが実際、アダムとイブは厳禁の知恵のもとの実を食べたのに、 死ななかったのは何故と尋ねられるであろう。
  またこの禁断の実が善悪を知る木といわれたのは、 これが善悪を教える戒めであったからである。蛇の言うせりふは古今東西変わらない。
 蛇は国家や学校においては「決り規則を守れ 」、 家庭、 友人の間では「倫理道徳の実践をせよ」という。 悪魔は必ずこういう善悪をわきまえ、 善行をなし、 悪行を断てという徳を積む努力による赦免を語り、これを人間に食わせるという手を使う。 ところが善行とは蛇にとって都合のよいのが善で、蛇にとって都合の悪いのが悪なのである。 即ち蛇を幸せにするのが善い行いであり、蛇を不幸にするのが悪い行いなのである。 ところが蛇とは何かって?
  その場の主で、昔からいて、 いばっていて、 常に長いものに巻かれろという。そして人の内容、 本質をみるのではなく、 うわべばかり見るのでウワバミといわれるのである。だがオロチにだまされるのはオロチである。
 人間がその知恵と力で、 幸福になれ、 善を行い、 不幸になる悪を避けることができるのなら、神はいらない、 助け手のイブもいらない。 しかし蛇は人間をごうまんにさせ、できない理想を掲げ、 できたような顔をする。それが「目がひらけ、 神のように、善悪を知るものになる( 三章五節 ) 」という蛇の誘いの言葉に表れている。 覚者、神のようになった人、 善悪をわきまえる完全な人、 などというのは、 悪魔の好む人なのである。
 悪魔とはもともと神の膝下にかしずく天使だったが、 その美と知恵と完全性の極みのゆえに自らを神のように思い、ごうまんになったがため神の怒りに触れ、 地獄行きに定められたのである。 それが地獄へ下るまえにエデンにやってきて人間を地獄にひっぱりこもうと企み、アダム、 イブに誘いかけたのである。 そしてまんまと蛇にやられてしまうのであるが、その事実を覆う空しい小細工、 それがイチジクのパンツである。 隠し装い、 ヤラセをする、自分を偽る――こういうのが一番いけない。人間は成長するにつれて妙にうそっぽい人間になる。
 またふたりが裸ではずかしくなかった( 創世記ニ章二五節 )とは、幼い子供のように自然のままで自分を隠さないことをいっている。
   心をいれかえて幼な子のようにならなければ、 天国にはいることはできないであろう。    (マタイ福音畫一八章四節)
 子供は素直で、 純粋無垢だ。 率直で感情をそのまま表し、 自分を包み隠さず、偽らない。 天真らんまんで屈托がない。 自由で魂が解放されている。 人の目を気にしない。
 この幼児のようになること、 それが救われることで、救われるために必要なのである。また救われた結果そうなる。 むろんこれは幼稚になるということではない。


いのちの木と善悪を知る木


 エデンの園に命にかかわる大切な二本の木がある。それは次ぎの事を意味する。
これを対比的に整理してみよう。
 ・ 命の木      キリスト  愛      寛容  許し  生    キリスト教    これを食べれば人は生きる。---------生きる本人、事をする当人の立場で居る時。
 ・ 善悪を知る木  モーセ   義  聖   怒り  裁き  死    ユダヤ教    これを食べれば、人は死ぬ、 死ぬべき者と知って死ぬ----------ただ傍観者になって生き、事をする人を裁く、あるいはあれこれ批判する立場に居る時。
 これはヨハネ福音書一章一七、 一八節よりモーセとキリストを象徴しているのは明らかだ。説明すれば、 食べるとは呑み込むこと、 征服することである。 だから「食べるな」とは神のものを自分のものにするなという意味があるのであろう。 善悪を決めることができるのは神だけである。それなのに人間がこれを勝手に決めること、 これが罪といえる。
  また、 ヘびの宗教は次のような性質を待っている。
1、 地縁血縁につながる。 2、 善行を積むことで救われるという。 3、 宿命、 運命とし て人生、 社会を考えようとする。 4、 伝統、 習俗を真理、 善悪の基準にする。 5、多数 が賛成するものを真理とする。 6、 自然および自然物を神として拝ませる。
結語   神の国と神の義を求めよ、そうすればすべて添えて与えられる(マタイ福音書6章33節)。
      この前者(神の国と神の義)が宗教であり、後者(すべて)の生活手段を明らかにするのが科学の役目である。


 一応 完



もどる