ルカによる福音書6章17節~19節
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。
イエスから力が出で、すべての人の病気をいやしていたからである。
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2000年前が、生きていくこともままならない厳しい世界であったことは想像できる。しかし、この豊かな国であるはずの日本で、なんと年間3万人の人々が自ら命を絶っているという。そのうえ多くの孤独死もある。おびただしい数の人々が肉体や精神の病で苦しみ、貧困の中にいる。
さらに苦しみの究極は自分が無価値な存在であり、誰にも必要とされず、ただ生きているということ。生きていることが無意味だと思い込んでしまう。そういう苦しみがこの世に満ちている。
イエスさまが下りてこられた山の下は、すなわちこの世の現実だ。
弱い私たち人間には、この世と反対、山の上の世界が必要である。それが教会である。
会堂が山の上にあるとか地理的なことではなく、教会は山の上(現世を離れた所)になければならない。
教会では、神様の言葉を聞き、信じ、神様を讃美し、祈り、礼拝を捧げる。そのこと抜きにわたしたちの山の下(現実世界)における信仰生活は支えられない。
主イエスは山の上で神に礼拝を捧げられた後、弟子・使徒らとともに山から下りられた。下りた場所には飢餓、病気、愛の欠乏、孤独、あらゆる苦しみが満ちている。
しかし、だからこそイエス様は山を下りて行かれる。
病の苦しみ、汚れた霊による悩み、そういうものは昔も今も変わらない。私たちの大半は病気で死ぬ。病気は経済的苦境をもたらす。また家族に迷惑をかけていると病の身を嘆き、精神をも病んでいく。
そして、病気は罪と関連づけられる。罪とは神様との関係の断絶であり、重い病は神にも見捨てられた結果で悪霊や汚れた霊にとり憑かれおきる。
病気は肉体的、経済的、社会的、宗教的な苦しみをもたらし、死に追いやる。
二重三重の苦しみを抱えた人々が2000年前にも、山の下に大勢いた。
イエス様の姿を見、その言葉を聞き、その手に触れていただきたい。そうすれば、きっと悪霊は出でいき、力を与えられて立ち上がれる。癒していただける。神様との交わりの中に再び迎え入れていただける。その事がなければ、自分は罪と死の闇に沈んでいくほかない。
主イエスは、そういう人々が大勢集まっている平地に下りて行かれたのだ。
人間はいつか死ぬ。今をどう生きるのか。余命宣告された時、どう生きるのか。
答えは神様からくるのみだ。