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貧しい人々は幸い」

ルカによる福音書6章20節~26節

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。 

「貧しい人々は幸いである、

 神の国はあなたがたのものである。」

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 聖書の言葉はときに私たちを困惑させる。

 「貧しい」ということが、どうしても「幸い」には思えない。むしろ不幸な事であると思う。

 21節には「今飢えている人々は、幸いである」と書かれている。食糧がないことが幸せな事であるとは思えない。

 

 戦後の日本人は、「お腹いっぱい食べたい」「貧しさから脱出したい」そう願って頑張ってきた。誰も貧乏になりたくないし、飢えることもしたくない。

 着るものが無い、食べ物が無い、病院に行くお金もない、貧しいということは大変な事だ。そのような中におかれても生きていくしかない。

 

 貧しい事がとても幸いであるとは思えない。むしろ反対に豊かになることが幸いであると思う。

 それなのに、イエス様は、説教の最初に「貧しい人々は幸いである」とおっしゃる。

 

 もしかすると、イエス様は神の子だから、いつも恵まれていて、貧しいということがどんなに大変で不安な事か知らないので、あんな悠長なことを言われたのではないかと思われただろうか。いいえ、そうではない。

 

 聖書を読むと、イエス様もまた貧しい庶民の出であることがわかる。また、地上の父親である大工のヨセフの記述が少ないことから、早くに亡くなったと言われている。おのずと長男であるイエス様が働き手となり、家族を養っておられたであろう。当然、豊かであるはずもない。

 

 つまり、イエス様が貧しさをご存じなかったということはない。むしろ、貧しさを経験されていたはずである。

 当時の一般庶民と同じ極貧生活をされ、人としての人生を歩んでこられたイエス様。

 

 貧しさをご存じの上で「貧しい人々は幸いである」と言われるのだ。

 

 では、いったいなぜ、「貧しい人々は幸いである」のか。

 

 それは、イエス様を求め、イエス様の所に来ることによって、父なる神様から大いなる祝福をいただき、経済も体も心も健やかになり、必ず幸いな人へと導かれるということである。

 あるいは、いかに貧しくとも、その現状を感謝し喜ぶことができる心に変えられ、幸いな人になるということである。

 

 豊かな物質に満たされている人々が幸いなのではない。

 イエス様を真剣に求める事で本当の幸いが得られるのである。

2017年05月26日

ペンテコステ礼拝

『聖霊による命』

使徒言行録2章1節~42節

 

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』[使徒2:17]

 

 今日(6月4日)は、ペンテコステ、すなわち聖霊降臨祭だ。

それは「何の日なのか?」というと、キリスト教会が出来た日なのだが、初めてクリスチャンが誕生した日ともいえる。

 

ユダヤ人の神に起源をなす伝統によると、ペンテコステは麦の収穫感謝祭である。その日に聖霊が降ったという事は、この日から天国の蔵、つまり神の国が開かれたということである。

 イエスキリストは言われる『だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国にはいることはできない』と。[ヨハネによる福音書3章5節]
これは文のつながりから見れば、水による洗礼と聖霊による洗礼を意味する事は明らかで、洗礼で古き人は死に、聖霊により復活(新生)する。

キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。…… わたしたちも新しい命に生きるためなのです。…… [ローマの信徒への手紙6章3節~11節]

「人の命とは何であるか?」「それは神の霊すなわち聖霊である」というのが正解である。

創世記2章7節には
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となったとある。


この命の息を吹き入れられたと同じ事をキリスト様はされる。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
[ヨハネによる福音書20章21~23節]


 この聖霊は、「キリストを甦らせた」と同じ霊である。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。[ローマ信徒への手紙8章11節]

この聖霊がイエスを信じる人々に注がれる。初めて大規模に注がれた日が、ペンテコステである。


 信じる者は救われる(信じない者は救われない)といわれるが、そこに「罪の赦し」が係わっている。
清い国には清い者しか入れないからである。

 さらに言うなら、神の国には神の子しか入れない。人は皆神の子だと言われるが、アダムとイブが禁断の実を食べたので、神の子ではなくなった。

神の子だけが神の家(天国)を相続できる。元の神の子になるには聖霊を受ける必要がある。母の胎から生まれ出たままでは神の子ではないのだ。

「はっきり言っておく。だれでも、水と霊とによって生れなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れた者は肉である。霊から生れた者は霊である。」[ヨハネによる福音書3章5節]

人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」[ヨハネ3章3節]と、イエス様は言われた。

新しく生まれるには水と霊が必要で、水の洗礼により古き自分は死に、聖霊の洗礼により新しく(神の子として)生きるのだ。
 
「信仰を持つ」=「イエスを救い主と信じる」には、聖霊の力や助けが必要だが、「信仰をもっただけで聖霊を受けている」と考えるには聖書の根拠がとぼしい。

キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。[ローマの信徒への手紙8章9節]

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが神の国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。[エフェソの信徒への手紙1章13,14節]
信じた後に、聖霊の証印を押されているのだから、聖霊の導きの結果、信じたということではない。

 神の国(天国)に入るためには、信仰だけでなく、水の洗礼と聖霊の洗礼が、欠かせない。
わたしたちの救い主イエスキリストは、最初の神の子として模範を示された。

民衆がみな洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。[ルカによる福音書3章21~22節]

聖霊の働きには、イロイロの徴(しるし)が今も伴う。
それで問題が生じることも多いが、すべては神のなさる事で感謝だ!

2017年06月04日

「聖霊について」

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ガラテア5:22
霊の結ぶ実は愛であり、喜び平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

ルカ11:13
天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。

コリント14:15
霊で祈り理性で祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。

ローマ8:26~27
同様に"霊"も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は神の御心に従って聖なる者たちのために執り成してくださるのです。

 

コリントの信徒への手紙3:16

あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることをしらないのですか。

 

ガラテヤの信徒への手紙2:20

生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。

 

ヨハネによる福音書14:16~17

わたしは父にお願いしよう。父は別に弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である(聖霊) {中略} 

この霊があなた方と共におり、これからもあなた方の内にいるからである。私はあなたがたをみなしごにはしておかない。

 

ヨハネによる福音書14:26

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

使徒言行録2:1~13

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。{中略}この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

 

使徒言行録2:17

終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ

 

 

使徒言行録2:38

悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。

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2017年05月28日

「因果応報を越えて」

ルカによる福音書6章27節より42節

 

与えなさい。そうすれば、あなたがにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。

あなたがたは自分の量る秤で、量り返されるからである」。 同章38節

イエス様はマタイ福音書5章17節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。

 

また同じ書の20節では、

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われた。

律法とは、神様が旧約聖書において、イスラエルの民に与えられた掟、戒めである。

イエス様を信じ、従っていく信仰者も律法を守っていく。

ここで書かれている律法学者やファリサイ派の人々は旧約聖書の律法の専門家であった。

彼らは字義どおり、律法を受け止め、律法に書かれていることはしっかりと守っているつもりなのだが、彼らの義、つまり彼らの正しさは、律法を言葉通り守るという正しさであった。

 

イエス様を信じる者は、律法の本来の目的である、「神様を愛し、隣人を愛する」ということを実現するために律法を守る。だから信仰者は律法学者やファリサイ派以上に、義や正しさに生きなくてはならないということである。

 


律法の中でも「人を殺してはならない」とある(出エジプト記20、13)戒めを例にあげると、これは互いの生命や生活を重んじ、殺人を抑止する良い律法であった。

根底には人と人が争い殺しあう事を止めさせ、その様に人が互いに傷つけあって自滅していく事から守りたいという、神様のご意思と愛によって、この律法は出来上がっていたのだ。

 

それを、ただ字義通りに理解し守るだけとなり、自分の復讐の権利が保証されている事を主張するようになってしまった。さらには、「目を傷つけられたら必ず目を傷つけ返さないといけない」という乱暴な考えを助長するルールになってしまった。

 

慈悲もゆるしの心もない考えで、神様の言葉を武器に、堂々と復讐するようになってしまっていた。本来、神様は人と人が互いに傷つけあう事、殺しあう事から守るために立てられた律法が字義通りの解釈により、変容してしまった。
 

律法を貫く原則は、原因=結果であって、

その逆も同じで、罪=罰、

奪う者は奪われる、憎むは憎まれる、

これがそのまま善行=善行で、

与える=与えられる、愛するものは愛される、

赦す者は赦される、となる。

 

人も神も同じものを同じだけ返す。

そこに信仰が働くなら、神が働かれ、連続して事が起こり、止まる事が無い無限に続く連鎖が起こるのである。

イエス様はこの事を悟り、実践する事で人がますます幸いになる事を望まれ、教えらたのだ。

人は同じ事を返す。いや人だけではない、山でヤッホーといえばヤッホーと山彦が返って来る。

鏡は、見るものをそのまま映す。万物は自己を映す鏡である。

馬鹿にされても、殴られ、どつかれても殴り返さず、むしろ笑顔を返す、すると相手は笑顔を返さざるを得なくなる。


聖短歌 

何事も 愛がすべてだ みな鏡
何処もこだます イエスの教え

2017年06月12日

「おびただしい病人を癒される」

ルカによる福音書6章17節~19節

 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。

 イエスから力が出で、すべての人の病気をいやしていたからである。

 

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2000年前が、生きていくこともままならない厳しい世界であったことは想像できる。しかし、この豊かな国であるはずの日本で、なんと年間3万人の人々が自ら命を絶っているという。そのうえ多くの孤独死もある。おびただしい数の人々が肉体や精神の病で苦しみ、貧困の中にいる。

 

さらに苦しみの究極は自分が無価値な存在であり、誰にも必要とされず、ただ生きているということ。生きていることが無意味だと思い込んでしまう。そういう苦しみがこの世に満ちている。

 

イエスさまが下りてこられた山の下は、すなわちこの世の現実だ。

弱い私たち人間には、この世と反対、山の上の世界が必要である。それが教会である。

 

会堂が山の上にあるとか地理的なことではなく、教会は山の上(現世を離れた所)になければならない。

 

教会では、神様の言葉を聞き、信じ、神様を讃美し、祈り、礼拝を捧げる。そのこと抜きにわたしたちの山の下(現実世界)における信仰生活は支えられない。

 

主イエスは山の上で神に礼拝を捧げられた後、弟子・使徒らとともに山から下りられた。下りた場所には飢餓、病気、愛の欠乏、孤独、あらゆる苦しみが満ちている。

しかし、だからこそイエス様は山を下りて行かれる。

 

病の苦しみ、汚れた霊による悩み、そういうものは昔も今も変わらない。私たちの大半は病気で死ぬ。病気は経済的苦境をもたらす。また家族に迷惑をかけていると病の身を嘆き、精神をも病んでいく。

そして、病気は罪と関連づけられる。罪とは神様との関係の断絶であり、重い病は神にも見捨てられた結果で悪霊や汚れた霊にとり憑かれおきる。

 

病気は肉体的、経済的、社会的、宗教的な苦しみをもたらし、死に追いやる。

 

二重三重の苦しみを抱えた人々が2000年前にも、山の下に大勢いた。

 

イエス様の姿を見、その言葉を聞き、その手に触れていただきたい。そうすれば、きっと悪霊は出でいき、力を与えられて立ち上がれる。癒していただける。神様との交わりの中に再び迎え入れていただける。その事がなければ、自分は罪と死の闇に沈んでいくほかない。

 

主イエスは、そういう人々が大勢集まっている平地に下りて行かれたのだ。

 

人間はいつか死ぬ。今をどう生きるのか。余命宣告された時、どう生きるのか。

答えは神様からくるのみだ

2017年05月26日