ルカによる福音書6章27節より42節
与えなさい。そうすれば、あなたがにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。
あなたがたは自分の量る秤で、量り返されるからである」。 同章38節
イエス様はマタイ福音書5章17節で
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。
また同じ書の20節では、
「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われた。
律法とは、神様が旧約聖書において、イスラエルの民に与えられた掟、戒めである。
イエス様を信じ、従っていく信仰者も律法を守っていく。
ここで書かれている律法学者やファリサイ派の人々は旧約聖書の律法の専門家であった。
彼らは字義どおり、律法を受け止め、律法に書かれていることはしっかりと守っているつもりなのだが、彼らの義、つまり彼らの正しさは、律法を言葉通り守るという正しさであった。
イエス様を信じる者は、律法の本来の目的である、「神様を愛し、隣人を愛する」ということを実現するために律法を守る。だから信仰者は律法学者やファリサイ派以上に、義や正しさに生きなくてはならないということである。
律法の中でも「人を殺してはならない」とある(出エジプト記20、13)戒めを例にあげると、これは互いの生命や生活を重んじ、殺人を抑止する良い律法であった。
根底には人と人が争い殺しあう事を止めさせ、その様に人が互いに傷つけあって自滅していく事から守りたいという、神様のご意思と愛によって、この律法は出来上がっていたのだ。
それを、ただ字義通りに理解し守るだけとなり、自分の復讐の権利が保証されている事を主張するようになってしまった。さらには、「目を傷つけられたら必ず目を傷つけ返さないといけない」という乱暴な考えを助長するルールになってしまった。
慈悲もゆるしの心もない考えで、神様の言葉を武器に、堂々と復讐するようになってしまっていた。本来、神様は人と人が互いに傷つけあう事、殺しあう事から守るために立てられた律法が字義通りの解釈により、変容してしまった。
律法を貫く原則は、原因=結果であって、
その逆も同じで、罪=罰、
奪う者は奪われる、憎むは憎まれる、
これがそのまま善行=善行で、
与える=与えられる、愛するものは愛される、
赦す者は赦される、となる。
人も神も同じものを同じだけ返す。
そこに信仰が働くなら、神が働かれ、連続して事が起こり、止まる事が無い無限に続く連鎖が起こるのである。
イエス様はこの事を悟り、実践する事で人がますます幸いになる事を望まれ、教えらたのだ。
人は同じ事を返す。いや人だけではない、山でヤッホーといえばヤッホーと山彦が返って来る。
鏡は、見るものをそのまま映す。万物は自己を映す鏡である。
馬鹿にされても、殴られ、どつかれても殴り返さず、むしろ笑顔を返す、すると相手は笑顔を返さざるを得なくなる。
聖短歌
何事も 愛がすべてだ みな鏡
何処もこだます イエスの教え